大江戸妖怪かわら版 封印の娘 香月日輪 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)大江戸《おおえど》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|団《だん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)記者[#「記者」に傍点] ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/03_000.jpg)入る] 〈カバー〉 昼空を龍が飛び、夜空を大こうもりが飛び、 隅田川には大みずち、飛鳥山には化け狐、 城には巨大なガイコツ・がしゃどくろがすむ妖怪都市・大江戸。 そこに、ただひとりの人間として落ちてきた少年は、 かわら版屋に職を得て、妖怪達と暮らし始めた…。 [#挿絵(img/03_001.jpg)入る]  大江戸妖怪かわら版  封印の娘  香月日輪  理論社  大江戸妖怪かわら版 封印の娘  もくじ  プロローグ  坊様、裾をからげて走る  雀、封印の娘に会う  雀、料られる  金十郎にあやまり行燈油差し  白鬼春雷を纏い花を舞い散らす  まだ浅き春かな [#地から1字上げ]装画 橋 賢亀 [#地から1字上げ]装幀 郷坪浩子 [#改ページ]  大江戸《おおえど》八百八町———。  その空を、雲に乗った墨衣《すみごろも》も黒々の坊《ぼう》さんの一|団《だん》が、でん、でん、と太鼓《たいこ》を打ち鳴らして横切ってゆく。 「おお、この時期は坊さんも忙《いそが》しくて、地面を歩いてる暇《ひま》はねぇと見える」  空を見上げて大江戸っ子たちは笑《わら》った。  その大江戸っ子たちも、一ツ目や三ツ目、鬼面《おにづら》に獣面《けものづら》に虫面。多足に一本足。大きいの小さいの。正体のハッキリしているの、してないのと奇奇怪怪《ききかいかい》な風貌揃《ふうぼうぞろ》い。  大江戸は大江戸でも、ここはまた別の世界。  昼空を龍《りゅう》が飛び、夜空を大蝙蝠《おおこうもり》が飛び、隅田川《すみだがわ》には大蛟《おおみずち》、飛鳥山《あすかやま》には化《ば》け狐《ぎつね》、大江戸|城《じょう》には巨大《きょだい》な骸骨《がいこつ》�がしゃどくろ�が棲《す》む、妖怪《ようかい》都市である。  とはいえ、世は長らくの天下泰平《てんかたいへい》。複雑怪奇《ふくざつかいき》な住民たちも、いたって平和に暮《く》らしていた。  今日は師走《しわす》も二十日《はつか》。明日から始まる各所の歳《とし》の市《いち》を前に、煤払《すすはら》いの最終日である。畳《たたみ》を上げ、埃《ほこり》を払い、床《ゆか》を磨《みが》き、サッパリと新年を迎《むか》えようと、大江戸《おおえど》っ子たちは奮闘《ふんとう》する。  キンと晴れ渡《わた》った師走の空の下、大江戸|城《じょう》をはじめ、各|武家屋敷《ぶけやしき》、商家、廓《くるわ》、貧乏長屋《びんぼうながや》にいたるまで、どんどんパンパン畳を叩《たた》く音と埃が景気よく舞《ま》い踊《おど》っている。 「♪めでためでたの若松様《わかまつさま》よ。枝《えだ》も栄えて葉も茂《しげ》る。おめでたやぁー、サッササッササー」  煤払いのすんだ大店《おおだな》の前で、主人をはじめ、番頭手代|下《した》っ端《ぱ》がズラリと輪になって歌い、手締《てじ》めが行われる。胴上《どうあ》げが行われている店もある。景気の良かった店では小銭《こぜに》や菓子《かし》がバラまかれることもあり、それを狙《ねら》ってヤジ馬も集まっている。 「今年もご贔屓《ひいき》ありがとうございました。また来年もよろしくお願い申し上げまする〜〜〜!」  そう言ってたくさんの菓子をまくのは、大江戸一番の菓子|処《どころ》「菊屋《きくや》」の主人。ヤジ馬も混《ま》ざって、まかれた菓子をわぁわぁと取り合う。主《あるじ》は客たちに向って言った。 「正月用のお餅《もち》の予約は明日締め切りでございます。そちらもお忘《わす》れなきように〜!」 「あ、忘れてた! いや、いいんだ。餅は長屋でつくんだった」 と、菓子を拾う顔を上げたのは、大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋の記者[#「記者」に傍点]|雀《すずめ》。  まだほんの少年のような顔をしてはいるが、これでも「大首のかわら版屋に雀あり」と言われる腕《うで》っこき。子どもだガキだと文句《もんく》を言わせぬ仕事ぶりが評判《ひょうばん》である。 「おやおや、雀サン。こんなとこで油売ってていいんデスかィ?」  ずんぐりと狸《たぬき》のような獣面《けものづら》の、菊屋の主が笑う。 「仕事よりも、祝儀《しゅうぎ》と菓子さぁ! あっちこっち回って、もゥこんなに集めたぜ」  雀は、布袋《ぬのぶくろ》にたまった小銭や菓子を見せた。 「あっはっは!」 「去年はこんなこと知らなかった[#「去年はこんなこと知らなかった」に傍点]からさ、今年は待ち構《かま》えてたんだ!」  嬉《うれ》しそうにそう言う雀《すずめ》に、菊屋《きくや》は笑顔《えがお》で頷《うなず》いた。 「雀! のろ屋がお囃子《はやし》歌ってるよ!」  小さな化け猫《ねこ》の子が、雀の袖《そで》を引っ張《ぱ》った。 「おう! のろ屋は景気良かったからな。なんかバラまくかもな!」  雀は子化けとともに、元気よく走って行った。 「♪めでためでたの若松様《わかまつさま》よ〜!」  ヤジ馬も加わっての合唱の後は、てぬぐいがまかれた。 「貰《もら》えるもんは、なんでも貰うぜー!」  嬉々《きき》としててぬぐいを拾う雀の上空を、五色の細布《ほそぬの》をたなびかせた輿《こし》の一|団《だん》が飛んでゆく。 「見ねえ! あの紋所《もんどころ》は白鷺城《しらさぎじょう》からだぜ!」  大江戸《おおえど》の西の彼方《かなた》、長壁姫《おさかべひめ》の治める大|出雲《いずも》から、今年も「白鷺の献上《けんじょう》」の使者がやってきた。 「そりゃあ、神々《こうごう》しいほど綺麗《きれい》な白鷺らしいよ」 「大江戸城の池には、その白鷺が乱舞《らんぶ》してるってねぇ。さぞや風雅《ふうが》な眺《なが》めだろうのゥ」 「大浪花《おおなにわ》の殿《との》サンからは、畳《たたみ》一枚ほどもある鯛《たい》が来るそうだゼ」 「喰《く》いでがあらあ!」  皆《みな》大笑いした。 「大江戸の殿サンは、みんなに何を贈《おく》るんだ?」 と雀が訊《たず》ねると、 「葡萄酒《ワイン》サ」  そう答えたのは、黒い狼面《おおかみづら》の侍《さむらい》、百雷《ひゃくらい》だった。 「八丁堀《はっちょうぼり》の旦那《だんな》」 「コリャ、旦那。ご機嫌《きげん》サンで」 「煤払《すすはら》いの日は、あっちこっち賑《にぎ》やかでいいねぇ。めでたい日だから喧嘩《けんか》も起こらねぇ」 「菊屋《きくや》じゃお菓子《かし》をまいてくれたぜ、旦那《だんな》」 「お前《め》ぇ、ソレ拾ったんだろう、雀《すずめ》? よこせよこせ」 「子どものお菓子を横取りしなさんすな、旦那」  皆《みな》が笑った。百雷《ひゃくらい》も牙《きば》の並《なら》んだ口を開け、愉快《ゆかい》そうに笑った。  雀|曰《いわ》く「ファンタジーゲームのキャラクター」のような、鋭《するど》い金色の目をした狼《おおかみ》の顔と、精悍《せいかん》な人間の身体《からだ》の持ち主、八丁堀同心《はっちょうぼりどうしん》百雷。またその首元にチラリと見える「入《い》れ墨《ずみ》」は「魔人《まじん》」の証《あかし》だった。  鬼道《きどう》すなわち妖術《ようじゅつ》を使う魔人は、大江戸《おおえど》っ子にとっても不思議な存在《そんざい》。時に尊敬《そんけい》され、時に恐《おそ》れられ、大江戸|城《じょう》の要職《ようしょく》に就《つ》いているかと思えば、町中をただフラフラしていたりする。 「葡萄酒《ワイン》を贈《おく》るなんて、大江戸の殿《との》サンはオシャレだな」 「大江戸が一番|渡《わた》り物が多いからサ。外地[#「外地」に傍点]に通じている穴《あな》があるからな。外から来る連中は、まず大江戸に来るわけだ」  雀は、不思議そうにその話を聞いた。 「海……。海を渡って来るんじゃねぇの?」 「海? 海の向こう側にある場所を、外地[#「外地」に傍点]とは言わねぇよ!?」 「ふぅ〜ん……」  不思議な町。不思議な、もう一つの「日本」。  雀には、まだまだ知らないことだらけの、妖怪《ようかい》たちの町。魔都《まと》———大江戸。  大通りの両側に立ち並ぶ町|並《な》みは普通《ふつう》でも、そこに生きる人々は普通じゃないモノたちばかり。  大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋の記者雀は、そんな世界のただ一人《ひとり》のただの人間。  ふと、この世界に落ちてきた雀は、泣いたり笑ったりしながら、妖怪たちに交じって普通に暮《く》らせるようになり、季節はまた一回りした。  今は、面白話《おもしろばなし》を求めて大江戸《おおえど》の町を東奔西走《とうほんせいそう》。すっかり「かわら版《ばん》屋」が板についた、雀《すずめ》二度目の冬である。 [#改ページ] [#挿絵(img/03_013.png)入る]   坊様《ぼうさま》、裾《すそ》をからげて走る 「お前《め》ぇん家《ち》は、もう煤払《すすはら》いはすんだのかェ?」  雀から取り上げた干菓子《ひがし》をぽりぽり齧《かじ》りながら、百雷《ひゃくらい》が訊《たず》ねた。 「うん。長屋はみんなで昨日《きのう》やった。畳《たたみ》を上げるっつっても、俺《おれ》ん家は四枚半だからなぁ。楽なもンさ。親方のとこは、手下どもがとっくにやっちゃってた。すげぇよな、親方の手下は。あんなに小《ちい》せぇくせに、畳を上げちゃうんだぜ?」  壁《かべ》一面の真《ま》っ赤《か》な顔だけの、大首《おおくび》の親方。その手下どもは、鶏《にわとり》の卵《たまご》よりちょイと大きめの、どこからどう見ても「醤油《しょうゆ》の煮卵《にたまご》」に、黒くて細い手足を生やした姿《すがた》。この小さなモノたちが、親方の髭《ひげ》の手入れから、雀《すずめ》たちの仕事の手伝い、かわら版《ばん》屋の掃除《そうじ》に片付《かたづ》け、客のもてなし、すべてをこなす。煤払《すすはら》いの際《さい》には、大きな畳《たたみ》をよってたかってワッショイワッショイと上げ、表へ運び出し、埃《ほこり》を払い、綺麗《きれい》に拭《ふ》いてまた戻《もど》す。大変な力持ちである。 「あれ、うちにも欲《ほ》しいよなぁ〜」 「よせよせ。目玉が飛び出すような�貸《か》し賃《ちん》�を取られるぜ」 「吝虫《しわむし》だから!」  雀と百雷《ひゃくらい》は声を合わせて大笑いした。 「今年も押《お》し迫《せま》ってきたの」  百雷は、顎《あご》の毛を撫《な》でながらしみじみと言った。 「まぁ、俺《おれ》らぁいつもと変わンねぇがな。年始まわりが忙しいだけだ」 「俺は、年内は滅法界《めっぽうけぇ》忙しいぜ?」  雀は、目玉をクリクリさせながら言った。 「今日は桜丸《さくらまる》やポーと風呂《ふろ》へ行って、二十二日は浅草観音《あさくさかんのん》の歳《とし》の市《いち》へ行って、二十五日は長屋で餅《もち》つきをして……。そうそう! 大晦日《おおみそか》には王子へ�千年|榎《えのき》の狐火《きつねび》�を見に行くんだ!」 「ほほぅ」 「そんで取って返して、�百鬼夜行《ひゃっきやこう》�を見る!」 「そいつぁ、世話世話しぃこった」 「取材も兼《か》ねてるからな。桜丸にひとっ飛びしてもらう」 「かわら版、楽しみにしてるゼ」  そう言ってくれる百雷に、雀は胸《むね》を張《は》った。 「おう!」  この不思議な世界で、まっとうに仕事をすることそれすなわち、ちゃんと生きている自分[#「ちゃんと生きている自分」に傍点]を実感できること。それは雀にとって、元の世界[#「元の世界」に傍点]でも感じることができなかったことだった。  さて。煤払《すすはら》いの最終日は皆《みな》で風呂《ふろ》に行くのが恒例《こうれい》の行事。  皆、サッパリと煤を洗《あら》い流し、髪《かみ》がある者は結《ゆ》い直し、毛深い者は毛|並《な》みを整え、つるりとした者は磨《みが》き上げ、さあ、夜遊びへ。いつもは夜遊びは禁止の商家の奉公人《ほうこうにん》たちも、この日ばかりは夜の点呼《てんこ》もないので、皆連れ立って夜の街へと繰《く》り出す。大江戸《おおえど》の「夜町」は、いつもよりずっと賑《にぎ》やかになるのだった。 「佃島《つくだじま》へ行こうぜ」 と提案《ていあん》したのは、桜丸《さくらまる》。  赤い長い髪、白い肌《はだ》。赤っぽい目をした、雀《すずめ》より少し年上の青年。いつも身に纏《まと》う白地に鮮《あざ》やかな桜|柄《がら》の着物も美々しい美形である。しかし、その白い身体《からだ》には、魔人《まじん》の証《あかし》の入れ墨《ずみ》が刻《きざ》まれている。  別名を「風の桜丸」。桜丸もまた、鬼道《きどう》を使う魔人であった。  桜丸は、雀がこの世界へ来た当初からの知り合い。今は雀の良き連れとして、取材を手伝ったり一緒《いっしょ》に遊びに行ったり、すっかり兄弟のような付き合いをしている。 「わざわざ佃島の銭湯《せんとう》へ行くのか?」  首を捻《ひね》る雀。 「ははぁ、湯船《ゆぶね》だね。佃島|沖《おき》の白魚漁見物を兼《か》ねていると見た」 と、言ったのは、ポー。 「当たり♪」 「いいね。佃島の白魚漁」  銀色|猫《ねこ》のポーは、雀の同僚《どうりょう》。大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋の文芸|担当《たんとう》記者である。雀よりもちょっと低いぐらいの背丈《せたけ》。二足歩行の足元は黒い革《かわ》のブーツ、チェック柄のハンチング帽《ぼう》と揃《そろ》いの柄のチョッキを身につけ、パイプを吹《ふ》かすこの化け猫は、どうやら「外地」からの「渡来人《とらいじん》」らしい。 「へぇ、白魚漁を見ながら風呂に入れるのか!」  佃島沖《つくだじまおき》の白魚漁は、大江戸《おおえど》の冬の風物詩《ふうぶつし》。夜の海を彩《いろど》る漁火《いさりび》の光の乱舞《らんぶ》。それがよく見える場所が永代橋《えいたいばし》で、この時期その周辺の海上に「湯船《ゆぶね》」がやって来る。水上|銭湯《せんとう》である。 「湯船は、いつもは川で川岸につけて営業してるけど、佃島の湯船は海の上に出てるからね。そこまで猪牙《ちょき》で着けなきゃならない手間はあるけど、白魚漁の漁火を見ながらならそれもいいかネ。今日は特別だしネ」  ポーは、美味《うま》そうにパイプの煙《けむり》をくゆらせた。  日がとっぷりと暮《く》れきってから、雀《すずめ》たちは佃島へと出かけた。  猪牙船に揺《ゆ》られながら、夜の海をゆく。ピンピンと顔を叩《たた》くような寒風が痛《いた》いくらいだが、雀は昼間よりも濃《こ》い海の匂《にお》いを嗅《か》いだ。目を閉《と》じ、大きく深呼吸《しんこきゅう》をする。身体中《からだじゅう》に潮《しお》の香《かお》りが満ちると、なんだか元気になるような気がしたが、渦《うず》を巻《ま》くような夜の海の暗さは底なしで、その色は懐《なつ》かしくもあり、恐《おそ》ろしくもあった。  真っ黒な海の下を、時折船の灯《あか》りに照らされた何者かの姿《すがた》が横切る。そのたびに、雀はギクリとした。大江戸は天下のある国。己《おのれ》の能力《のうりょく》をどう使おうが自由だが、それによって他者に迷惑《めいわく》をかけると罰《ばっ》せられる、歴《れき》とした法治国家である。それでも、 「ここで船をひっくり返されたら、ひとたまりもねぇなぁ」 と、雀は心の隅《すみ》でチラリと慄《おのの》くのだった。  雀、ポー、桜丸《さくらまる》が乗り込《こ》んだ湯船には、男しかいなかった。混浴《こんよく》が当たり前の大江戸の銭湯。それにまだちょっと戸惑《とまど》う雀は、ほっとした。こんな狭《せま》い湯船の洗《あら》い場で、裸《はだか》の女と一緒《いっしょ》となればどこに目をやっていいかわからない。たとえそれが人外であっても。  脱衣《だつい》場に現《あらわ》れた桜丸を見て、洗い場にいた男どもから歓声《かんせい》と笑い声が上がった。 「コリャ、景物《けいぶつ》景物」 「こンだけまぶしけりゃ、野郎《やろう》でもありがたいってもンだ」 「エンリョはいらねぇ。スッパリと脱《ぬ》いでくンな。拝《おが》むゼ!」  下品な物言いや笑いにも、桜丸は「ふふん」と動じない。  だが、桜丸が着物をするりと脱ぎ全身があらわになると、そこに刻《きざ》まれた入《い》れ墨《ずみ》を見て、全員がウッと息を呑《の》んだ。 「魔人《まじん》か……!」 「イヤイヤ。別にあンたをどうこうしようってわけじゃねぇよ、兄サン」  慌《あわ》てる連中の様子が可笑《おか》しくて、雀《すずめ》は笑ってしまった。  桜丸《さくらまる》を見て男どもが思わず喜ぶ気持ちはわかる。しかし、それは桜丸が女のように美しい「人」だから……というわけでもないらしい。その証拠《しょうこ》に、ポーの姿《すがた》に見惚《みほ》れているモノもいる。この世界での「美しい」とは、美しいという波動を発しているかどうか[#「波動を発しているかどうか」に傍点]によるという。雀にはイマイチよくわからないが。 「つまり、俺《おれ》は美しいという波動を発していないんだな」  そういう意味では、そういう目で全く見られない雀は、着物を脱《ぬ》いでも裸《はだか》になっても「お、人間だ」と、ちょっと驚《おどろ》かれるぐらい。この世界では、人間は確《たし》かに珍《めずら》しい存在《そんざい》のようだが、それも渡来人《とらいじん》ほどの珍しさ程度《ていど》のようだ。  ざくろ口をくぐると、内部の壁《かべ》が大きく口を開けていて、その向こうに夜の海が広がっているのが見えた。町の銭湯《せんとう》のざくろ口内は湯気をこもらせるため壁に小窓《こまど》がある程度で、湯槽《ゆそう》はほぼ真っ暗に近いが、この湯船からは海上に灯る光がよく見えた。 「わぁ〜、綺麗《きれい》だ!」  漆黒《しっこく》の闇間《やみま》に灯る数々の灯《あか》り。黒い海面がそれを映《うつ》して、光は二重に煌《きらめ》く。しかし、 「なんともいえぬ見物じゃねぇか」 「ホンニのぅ。奇絶《きぜつ》奇絶」 と、客たちは一応《いちおう》景色を愛《め》でているが、もっと愛《め》でているのが湯につかりながらの酒盛《さかも》りだった。  開け放した窓から冷気が入るので、熱い湯につかっていても気にならなかった。湯につかったまま、いつまでも外の景色と酒盛りを楽しんでいられた。 「露天風呂《ろてんぶろ》ってわけだ」  雀はひとりごちた。 「あいヨ。酒と肴《さかな》」 「待ってました!」  桜丸《さくらまる》とポーも、さっそく酒盛りを始めた。 「ひょっとして白魚漁よりもソレが目的?」 と、雀《すずめ》が訊《たず》ねると、 「そうで有馬《ありま》の筆人形ってな!」 「ホラ、雀。白魚の踊《おど》り食いだよ」  白魚漁を見ながら白魚を踊り食い。 「呆《あき》れるゼ」  雀は笑った。 「今年もいろいろ面白《おもしろ》い年だったねぇ」 「なんつっても、水神《すいじん》の嫁取《よめと》り! すごかった〜」  桜丸とポーと、三人で湯につかりながら夜景を眺《なが》め、美味《うま》いものを食い、今年一年を振《ふ》り返った。 「兄さん、冷やっこいはどうかね?」  世話人が、雀には甘い冷水を勧《すす》めてくれた。 「わ〜、ちょーだいちょーだい!」  それは、火照《ほて》った身体《からだ》にとろけるほど美味かった。  雀は、こんな風に暮《く》れを過《す》ごせることを幸せに思った。夜の海を彩《いろど》る光の美しさが、いっそう胸《むね》に迫《せま》る思いがした。  二十二日。雀は歳《とし》の市《いち》へ買出しに行った。  あちらこちらで催《もよお》される歳の市の中でも、最も賑《にぎ》やかな浅草観音《あさくさかんのん》。境内《けいだい》は、注連縄《しめなわ》、羽子板《はごいた》、破魔矢《はまや》などズラリ揃《そろ》った縁起物《えんぎもの》の他、正月用品に台所用品、農具などを買う客で押《お》すな押すなの大賑わい。その雰囲気《ふんいき》を味わいながら、雀も桶《おけ》や柄杓《ひしゃく》、笊《ざる》などを買った。 「お、雀じゃねぇか」  声をかけてきたのは、大きな兎《うさぎ》。大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋の向かいの飯処《めしどころ》「うさ屋」の主《あるじ》である。 「おやっさんも買出しかイ?」 「おぅサ。やっぱ市は賑《にぎ》やかで良《え》ぇねえ。こゥ、ぐっと師走《しわす》ってぇ気分になるじゃねぇか」  うさ屋は、肩《かた》に大きな注連縄《しめなわ》を担《かつ》いでいた。 「うん……良ぇね」  この世界に来て、雀《すずめ》は季節を感じることの喜びを知った。四季とともに巡《めぐ》る行事を身体《からだ》に積み重ねるように過《す》ごすと、時間がただ無駄《むだ》に過ぎてゆかないような気がした。 「おお、人ごみから抜《ぬ》けると寒いの」  毛皮で覆《おお》われたうさ屋も寒いらしい。雀は笑ってしまった。 「どうだぇ、雀。鍋《なべ》でもつついて温《あった》まらねぇか?」 「良ぇね!」  雀は、うさ屋のおごりで河豚《ふぐ》鍋を喰《く》った。  寒さで身のしまった河豚は、雀の口の中でぷりぷりと踊《おど》った。 「すげ〜〜! 美味《うめ》ぇ〜〜〜!!」 「げに恐《おそ》ろしきものの味だわなぁ」  うさ屋は「ひひひ」と笑った。  河豚|雑炊《ぞうすい》をかっ込《か》むと、雀の身体は芯《しん》から温まった。 「来年も、ひとつよろしく頼《たの》むゼ」  ヒレ酒をやりつつそう言ううさ屋に、雀は深々と頭を下げた。 「こっちこそ。俺《おれ》が生きてる半分くらいは、おやっさんの飯のおかげだから。よろしく頼ンます」 「うぁっはっはっは!」  うさ屋は、大きな腹《はら》をゆさゆさ揺《ゆ》すって笑った。  二十五日。 「イヨ〜〜〜!」 「ハッ!!」  ぺったんぺったんと、餅《もち》をつく景気のいい音と掛《か》け声が響《ひび》き渡《わた》る。  雀《すずめ》の住む長屋の正月用の餅つきが行われた。長屋で持っている臼《うす》と杵《きね》を餅屋に持ち込《こ》んで、その庭でつかせてもらうのだ。貧乏長屋《びんぼうながや》には、いっぺんに大量の餅米を蒸《む》すことのできる大きな竃《かまど》がない。餅米は餅屋で蒸してもらい、あとは長屋の住人がついて、餅にして持って帰る。  餅屋の庭や土間では、他にも幾組《いくくみ》もの餅つきがにぎにぎしく行われていた。雀も餅をつかせてもらったが、ぺしょぺしょと不景気な音しか出ず、皆《みな》に大笑いされてしまった。 「見てなぁ、雀。餅ってなぁ、こうつくんだヨ!」  着物をはだけた、うっすらと茶毛で覆《おお》われた逞《たくま》しい身体《からだ》が杵をふるうと、筋肉《きんにく》がもりっと隆起《りゅうき》した。犬面《いぬづら》の仙次《せんじ》は材木屋の下働き。日々大きな丸太を担《かつ》いでいる。その鍛《きた》えられた腕《うで》が、たちまち餅をつき上げていった。 「いやーっ、仙サン、良《え》ぇ男!」 「やっぱり若《わか》い男は良ぇもンだねぇ」  餅のつき上がりを待っているおかみ連中から、艶《つや》っぽい声が飛ぶ。 「まだまだ仙さんたちにゃあ、かなわねぇなぁ」 と、頭を掻《か》く雀に、大工の伊佐《いさ》は言った。 「ナニサ、アアやっておだてりゃ、若ぇ奴《やつ》ぁシッポ振《ふ》って働くからヨ」  実際《じっさい》、尻尾《しっぽ》を振っている仙次を見て、雀は大笑いした。  つき上がった餅を、おかみたちが手際《てぎわ》よく丸餅にしていった。雀も丸餅を五|個《こ》と、小さな可愛《かわい》い鏡餅《かがみもち》を貰《もら》った。できたての餅は、今すぐ喰《く》ってしまいたいぐらい美味《うま》そうだった。  それやこれやで、今年も晦日《みそか》を迎えた大江戸《おおえど》の町。 町中がいっそう気忙《きぜわ》しく、しかし目出度《めでた》いことが大好きな大江戸っ子たちはウキウキと賑《にぎ》やかで華《はな》やかで、庭先の梅の花も、思わずオットットとほころびそうだった。  午後。雀《すずめ》は、部屋《へや》の北側にすえた地天宮《ちてんぐう》の神棚《かみだな》の前でパンパンと柏手《かしわで》を打った。そこに供《そな》えておいた使い古した筆と履《は》き潰《つぶ》した草鞋《ぞうり》、取材手帳などを持って長屋を出る。  雀が向かったのは、大江戸《おおえど》地天宮。  地天宮には、今年お役御免《やくごめん》となったさまざまな道具が持ち込《こ》まれていた。鍋《なべ》、釜《かま》、皿から、置物、三味線《しゃみせん》や道具箱、大きいものは長持《ながもち》なども。境内《けいだい》の中央の大きな窪《くぼ》みに、皆《みな》が置いていった道具たちが山のように積まれている。雀もそこへ自分の道具をそっと置いた。  古道具や壊《こわ》れ物は、この地天宮で魂抜《たまぬ》きの神事を受け、燃《も》やされる。これは、古道具に憑《つ》いているかも知れない陰《いん》の気を祓《はら》うためであり、邪《じゃ》は神火によって浄化《じょうか》される。一方、大切に使われ、愛されていた道具には良き魂《たましい》が宿り、その魂は地天宮から送り出され、夜の大江戸の町を縦断《じゅうだん》するように行進するのだ。鍋、釜、楽器に刀、さまざまな道具の霊《れい》たち——付喪神《つくもがみ》が楽しげに練り歩く。百鬼夜行《ひゃっきやこう》である。 「俺《おれ》の筆にも、神さまは宿っているだろうか?」  雀の生活を、雀の生きることそのものを支《ささ》えてくれている道具たち。その物たちに、雀は感謝《かんしゃ》してやまない。道具に感謝することも、この世界へきて覚えたことだった。 「よう、雀」 「桜丸《さくらまる》」  地天宮の境内で、雀は桜丸と待ち合わせをしていた。 「腹《はら》ごしらえしてから行くぜ」 「おう!」  二人は屋台で蕎麦《そば》をすすった。 「やっぱ大晦日《おおみそか》は蕎麦だなぁ」  天ぷらを乗っけた蕎麦を、雀は美味《うま》そうにつゆまで飲んだ。 「お前《め》ぇ、年中蕎麦食ってるじゃねェか」 「はは。俺《おれ》、蕎麦が好きでさア。大江戸の蕎麦はどこのも美味いから嬉《うれ》しいぜ」  雀は、蕎麦売りに向かってVサインを出した。手も足も真っ黒、ほっかむりの中も真っ黒のノッペラボウの蕎麦《そば》売りは、ちょイと頭を下げた。 「ところで、桜丸《さくらまる》はその格好《かっこう》でいいのか? 寒くねぇの? いつもと変わンねぇじゃん」  桜丸は、いつもと同じ。桜|柄《がら》の着物に赤い細帯。同じく赤い半股引《はんももひき》。そして裸足《はだし》に草履《ぞうり》。  一方、冬空を飛ぶに備《そな》え、雀《すずめ》は股引に足袋《たび》を履《は》き、綿《わた》入れを羽織《はお》って、首には布《ぬの》を巻《ま》いてきた。桜丸は笑った。 「女の腰巻《こしまき》を巻いてくるたぁ、色気のあるこった」 「えっ、これ腰巻なのかっ!? 古着屋で古布を買ったつもりなんだけど」 「寒《さみ》ぃこたぁ寒ぃが、だからって俺《おれ》らぁ……特に何もしねぇなぁ。お[#「お」に傍点]前《め》ぇと[#「ぇと」に傍点]違《ちが》ってな[#「ってな」に傍点]」 「ふぅ〜ん!?」  そういえば、うさ屋も「寒い」と言いつつ、何か羽織るなどしていなかった。寒くなった大江戸《おおえど》で、もこもこと着ぶくれている者は少ない。羽織姿《はおりすがた》は確《たし》かに増《ふ》えたが。皆《みな》、雀ほど寒さを感じないのかも知れない。 「ポーも変わらねぇなぁ」 「ありゃあ、下毛が生えるからヨ」 「ああ、そうか!!」  雀は激《はげ》しく納得《なっとく》した。 「そイじゃあ、行くぜ!」  桜丸は、雀を背負《せお》うと一気に空へと舞《ま》い上がった。 「風の桜丸」の異名《いみょう》の通り、桜丸は風のように空を飛ぶことができる。飛ぶと言うよりも「跳《は》ねる」と言った方が正しいか。風をとらえて空高く飛び上がり、高い屋根や鐘楼《しょうろう》を、トン、トン、と蹴《け》りながら飛び進むのだ。 「ひゃあ〜〜〜! 寒ぃけど、気持ちイ———!」  寒風を切り裂《さ》いて、二人《ふたり》が向うところは王子《おうじ》。カラッと晴れた晦日《みそか》の青空。空気はどこまでも澄《す》んでいて、お天道さんの光が真《ま》っ直《す》ぐに届《とど》く感じがした。  王子《おうじ》の千年|榎《えのき》は、雀《すずめ》が何十人と寄《よ》らねば囲《かこ》めぬほどの大木。大晦日《おおみそか》の夕刻《ゆうこく》、ここに近隣《きんりん》の狐族《きつねぞく》が大集結する。その数は千|匹《びき》ともいわれる。長《おさ》から来年の神託《しんたく》が下されるということだが、そういうことは置いといて。狐たちが灯《とも》す「狐火《きつねび》」の様が、なんとも言われぬほど美しく妖《あや》しく、毎年見物人の絶《た》えぬ風物詩《ふうぶつし》となっている。  雀と桜丸《さくらまる》が千年榎に来た頃《ころ》には、もう視界《しかい》を埋《う》め尽《つ》くすほどの狐が集まっていた。それを遠巻《とおま》きに、見物人たちも集まっている。いつの頃からか、狐火の色の見え具合で来年の吉凶《きっきょう》が占《うらな》えると言われ始め、見物人がますます増《ふ》えた。 「どんな具合に見えりゃあ、縁起《えんぎ》がいいんだイ?」  雀は桜丸に訊《き》いてみたが、桜丸は首を捻《ひね》った。 「さぁて」  雀は、集まった見物人に取材をした。 「コゥ、燃《も》えるような赤い光の中に、キラキラと雪が降《ふ》るように見えるってンだ。それを見た奴《やつ》が富《とみ》くじに当たったと」 「イヤイヤ。蜃気楼《しんきろう》のように、虹《にじ》色に見えるのがいいらしいゼ」 「火がくるくると回るらしいねぇ」 「滅法界《めっぽうけぇ》景気のエエ色に決まってンだろう!」 「…………だからそれはどんな色……イヤ、いいや」  雀は、とりあえず皆《みな》の言うことを手帳に記しておいた。  夕陽《ゆうひ》が山の向こうへ落ち、あたりが徐々《じょじょ》に黄昏闇《たそがれやみ》に沈《しず》みだすと、千年榎の狐火が次々と灯り始めた。 「おお〜……!」  見物人がどよめく。  千匹もの狐たちの間に、あちらでこちらで色の違《ちが》う炎《ほのお》が燃える。それは何重にも重なり合い、刻々《こくこく》と深みを増す黄昏の色を映《うつ》して千変万化《せんぺんばんか》した。そして、暗くなるごとに鮮《あざ》やかになっていった。 「すげぇ〜! 綺麗《きれ》ェ〜!」  視界《しかい》いっぱいに灯《とも》る千の明かり。そのド迫力《はくりょく》に雀《すずめ》は圧倒《あっとう》された。それは確《たし》かに、燃《も》える妖火《ようび》の中に雪が煌《きらめ》くようでもあり、蜃気楼《しんきろう》のように虹《にじ》色で、くるくると回り、踊《おど》るようだった。 「滅法界《めっぽうけぇ》景気のエエ色って感じはしないけどな」  どちらかというと、妖《あや》しく美しい。神秘《しんぴ》的な感じだった。これは狐族《きつねぞく》の「神事」なのだ。 「どんな神託《しんたく》が下ったんだろうなぁ」  神託が下ると、狐たちは酒宴《しゅえん》をはじめ、このまま年を越すという。夜が明けるまで狐火は灯り続け、見物人も入れ替《か》わり立ち代わり絶《た》えないが、宴《うたげ》には外部の者は参加できない。  雀は、一番|端《はし》っこで酒が来るのを待っている狐にそっと近づき、声をかけた。 「ご神託は何だって? 教えてくンねぇ」  若い狐は細い目をさらに細めた。 「ヤ。そいつぁ、言えねぇンだ」 「あ、そうなのか」 「雀、そろそろ帰《けぇ》るぜ」 「ちょっと待って。だいたいの様子をスケッチしといて……と。キュー太に絵を描《か》いてもらわなきゃな」  雀は、狐火と狐たちの様子を書き留《と》めた。キュー太は、大首のかわら版《ばん》屋の絵師《えし》。白い布《ぬの》をかぶせた酒樽《さかだる》のような謎《なぞ》のイキモノだが、絵の腕《うで》は滅法《めっぽう》たつ。  雀は、記事の下書きも書いておいた。 『王子《おうじ》の晦日《みそか》の風物詩《ふうぶつし》�千年|榎《えのき》�に集《つど》う狐たちの、数の多さは圧巻《あっかん》。まるで狐色の敷物《しきもの》だ。その一面の敷物の上に灯る妖《あや》し火の見事なこと。キラキラ光り、くるくる舞《ま》い、蜃気楼《しんきろう》のように虹色だったり、炎蛇《えんじゃ》のように真《ま》っ赤《か》だったり。とびきり仕掛《しか》けの派手《はで》なカラクリ幻燈《げんとう》のようサ。 生憎《あいにく》、狐族のご神託は秘密《ひみつ》らしいが、こんなキレイな光の| 魔 法 《いりゅーじょん》の中に下るご神託が、不吉《ふきつ》なもンであるはずがねぇと、狐神《こしん》様にはよろしくお頼《たの》みあげ豆腐《どうふ》』 「……よし。次は百鬼夜行《ひゃっきやこう》だな。まったく晦日《みそか》と正月が並《なら》ぶってな、このことだな」 「それを今日言うかェ」  桜丸《さくらまる》は笑った。  日が落ちて一|段《だん》と寒くなった空をひとっ飛び。雀《すずめ》と桜丸は、神田《かんだ》へやって来た。  神田にある小さな庵《いおり》。ここで雀と桜丸は、鬼火《おにび》の旦那《だんな》と年を越《こ》すことになっている。百鬼夜行もここの近くを通る。 「ごめんよ。旦那いるかイ?」  引き戸を開けて、桜丸は声をかけた。 「おぅ。おっつけ来る頃《ころ》だと思ってな。火ィ入れといたぜ」  鬼火の旦那は、二人を中へ招《まね》きいれた。  肩《かた》にかかるざんばらの黒髪《くろかみ》に、黒い色|眼鏡《めがね》をかけた長身の男。薄墨色《うすずみいろ》の着物の柄《がら》は黒い鬼火。そして首や襟《えり》の袷《あわせ》、足に見える青黒い入《い》れ墨《ずみ》。雀が知っている魔人《まじん》の中でも、一等《いっとう》正体不明の……そして、この世界へ落ちてきた雀を最初に助け、ずっと見守り続けていてくれる鬼火の旦那。  小ぶりで上品な部屋《へや》の中には炬燵《こたつ》。火鉢《ひばち》に据《す》えられた鉄瓶《てつびん》からは湯気が立っている。ここはいつ来ても、真新しい畳《たたみ》の青い匂《にお》いがする。縁側《えんがわ》の戸には、模様硝子《もようガラス》が嵌《は》められていた。 「こんにゃくの幽霊《ゆうれい》一|丁《ちょう》、お持ちしやした」  桜丸は、ブルブル震《ふる》える雀を差し出した。 「ハハハ」 「ウ、ウ、ウ。桜丸の背中《せなか》で凍《こご》えっちまうかと思った」  炬燵にしがみついて震える雀に、旦那がお茶を出してくれた。鼻をくすぐるえもいわれぬ柚子《ゆず》の香《かお》り。コクリと飲めば口中に、熱さ、甘《あま》さ、香りの波が次々と押《お》し寄《よ》せ、それは身体《からだ》中に広がっていった。 「う〜〜〜……うめ———イ!」 「柚子茶《ゆずちゃ》だ。温まるだろ?」 「うん。やっと人心地ついたゼ」 「さすがの俺様《おれさま》も寒かったぜ〜」  桜丸《さくらまる》も炬燵《こたつ》にもこもこと入ってきた。 「湯豆腐《ゆどうふ》に熱燗《あつかん》。その後ァ、軍鶏鍋《しゃもなべ》だ」 と、旦那《だんな》が言った。 「そいつぁ、ありがた山の寒紅梅《かんこうばい》」 「軍鶏鍋〜〜〜っ!!」  桜丸と雀《すずめ》は大喜びした。  この世界に、雀は一人《ひとり》きり———。  でも、淋《さび》しくない。  鬼火《おにび》の旦那と桜丸と、温《あたた》かい部屋《へや》で鍋を囲《かこ》む。最近あったことや、この一年のことをいろいろ話す。雀は、話したいことがたくさんある。桜丸は笑い、旦那はうんうんと聞いている。  この、ささやかな団欒《だんらん》。このささやかさが、雀をしみじみと幸せにする。雀が元いた世界では、決して、決して手にできなかったことだった。家族とでさえかなわなかったことだった。 「今年も……一年が過《す》ぎた……」  そう実感できる。雀の身体を過ぎ去った季節の出来事を、一つ一つ思い巡《めぐ》らすことができる。 「お、除夜《じょや》の鐘《かね》が始まったの」  旦那がそう言ったので、雀は立ち上がり、硝子戸《ガラスど》をカラカラと開けてみた。 「あ、雪だ」  夜闇《よるやみ》にちらちらと小雪が舞《ま》う。ご〜んという鐘《かね》の音が、冷え込《こ》んだ空気の中を伝わってきた。 「そろそろ百鬼夜行《ひゃっきやこう》が始まる?」 「そうだな。地天宮《ちてんぐう》での神事が終わる頃《ころ》だ」  旦那《だんな》が雀《すずめ》の傍《かたわら》に立った。 「ホレ、見ねぇ。夜空がちょイと赤いだろう。あそこが地天宮だ。あれは道具を燃《も》やす火柱の明かりサ」 「神火に燃やされて、陰《いん》の気は祓《はら》われ、陽の気は付喪神《つくもがみ》となって行進する……。付喪神って、いい神様なんだな」 「そうとも限《かぎ》らねぇ。陰の気だって形をなせば、そりゃあ付喪神と呼《よ》ばれる」 「そうなんだ」 「付喪神ってなぁ、道具の化身|一般《いっぱん》を指すのサ」 「ふぅ〜ん」 「お前《め》ぇ、家で使った爪楊枝《つまようじ》を放ったらかしにしちゃいねぇか? ちゃんと始末しとかねぇと、夜中に化けるぜ」 「そうなんだ!? いや、俺《おれ》ぁ、ちゃんと始末してるぜ」 「物事にゃあな、きちっとけじめをつけねぇといけねぇのヨ。使った爪楊枝は、そのつどちゃんと始末する、これが爪楊枝に対するけじめだ。すべての物事に、こういうけじめがある。これを怠《おこた》ると、気が澱《よど》むってわけだ」 「……ん。なんかわかる気がする」 「そイじゃあ、見に行くか。百鬼夜行をヨ」 「おぅ!!」  雀は、旦那と桜丸《さくらまる》と連れ立って、夜行が通るといわれる大通りまで歩いて行った。通りには、見物人が集まり始めていた。 「百鬼夜行を見ると、今年も終わりという気がするのウ」 「今年も良《え》ェ年だったゼ。重畳《ちょうじょう》重畳」  皆《みな》も、ゆく年を惜《お》しんでいる。 「コリャ、鬼火《おにび》の旦那《だんな》」 「ご機嫌《きげん》サンで」 「冷えるの」 「ナニサ、良ェ塩梅《あんばい》に引っ掛《か》けてるものヨ。寒さなんざ屁《へ》でもねぇ」 「お前《め》ェは、寒さがこたえるんじゃねぇか、雀《すずめ》?」 「ナニサ、湯豆腐《ゆどうふ》と軍鶏鍋《しゃもなべ》を食ってきたものヨ。寒さなんざ屁でもねぇや」 「わっはっはっは」 「いいネ、雀。上出来だぜ」  そこに居合《いあ》わせた者たちと、またひとしきりしゃべり合う。酒が回ってきたり、餅《もち》が回ってきたりする。 「オ。来たぜ、雀」  桜丸《さくらまる》が、通りの向こうの方を指差した。  暗い道の向こうが、ふわぁっと明るくなった。何やら賑《にぎ》やかな気配《けはい》が、だんだんと近づいてくる。 「♪めでためでたの若松様《わかまつさま》よ。枝《えだ》も栄えて葉も茂《しげ》る。おめでたやぁー、サッササッササー」 という歌声とともに、シャンシャンぽんぽんカンカンと、鳴り物を打ち鳴らしながら、小さいのやら大きいのやらがゾロゾロとやって来た。  先頭をゆくは顔を布《ぬの》で覆《おお》った地天宮《ちてんぐう》の神官|二人《ふたり》。片方《かたほう》は鉾《ほこ》をかつぎ、片方は白い御幣《ごへい》を地に伏《ふ》せながら歩く。  後に続くは付喪神《つくもがみ》たち。被衣《かずき》、払子《ほっす》、掛け軸《じく》、下駄《げた》、琴《こと》、琵琶《びわ》。いずれも、人や獣《けもの》の手足を生やし、褌《ふんどし》をしめたり着物を羽織《はお》っていたりの姿《すがた》。目鼻が付いているモノもいる。琵琶はジャンジャンと自分をかき鳴らし、鰐《わに》のような四本の足を生やしてのたのたと歩く琴を、下駄男が奏《かな》でていた。美しい鳥の姿となって飛んでくるのは、兜《かぶと》に鏡《かがみ》。皿たちはお互《たが》いをぶつけ合って音を出している。皆《みな》、実に楽しそうに飛び跳《は》ねている。 「すげぇ……!」  雀《すずめ》は目を見張《みは》った。去年の大晦日《おおみそか》はこれを見逃《みのが》した。寝《ね》入っていたのだ。 「そうだ。去年はよく風邪《かぜ》を引いたんだ」  この世界での生活が落ち着いてくると、雀はよく体調を崩《くず》した。緊張《きんちょう》がとけた証拠《しょうこ》だと、鬼火《おにび》の旦那《だんな》は言った。やがて雀の身体《からだ》も丈夫《じょうぶ》になっていった。  笛《ふえ》の妖怪《ようかい》はピーピーと自ら鳴りながら。一本足を生やした傘化《かさば》けたちは、お囃子《はやし》に合わせて飛び跳《は》ねる。青|布《ぬの》、黒布は地を這《は》うように。草履《ぞうり》の妖怪は杖《つえ》の馬に乗って来た。  付喪神《つくもがみ》たちは、やわらかい温かい光に包まれていた。その姿《すがた》の向こう側が透《す》けて見えた。 「なんか、アニメ見てるみたいだな」  長持《ながもち》や行李《こうり》や櫃《ひつ》といった大きなものが行進してきた。まるで芋虫《いもむし》のような、百足《むかで》のような足を生やし、わさわさと歩いてくる。その上には小さな小物類が乗り、楽しそうに踊《おど》っていた。箸《はし》、茶碗《ちゃわん》、湯飲《ゆの》み、孫《まご》の手。みんな可愛《かわい》らしい手足を生やしている。  硯《すずり》とともに、何本もの筆もあった。ズラリと並《なら》んで調子を合わせ、お囃子に乗っている。そこに雀のものがあるかどうかはわからないが、雀はそっと手を合わせた。道の両側で見物する者たちも、付喪神たちと一緒《いっしょ》に歌って見送った。 「おめでたやぁー、サッササッササー!!」 「ありがとよぉーっ!」 「またよろしく頼《たの》むぜー!」  百鬼夜行《ひゃっきやこう》は大江戸《おおえど》っ子たちに見送られ、賑《にぎ》やかに通り過《す》ぎていった。 「どこまで行くんだい?」 と、雀は専門家二人《せんもんかふたり》に問うた。 「風天宮《ふうてんぐう》の手前あたりに霊道《れいどう》が通っている。そこから成仏《じょうぶつ》すンのサ」 「先頭の地天宮の神官は、霊道を開ける係りってわけだ」 「そうか……。みんな、無事にあの世へ行けますように」  雀は、あらためて手を合わせた。 『来るは来るは、大きいの小さいの。下駄《げた》、琵琶《びわ》、琴《こと》、布《ぬの》に傘化《かさば》け、欠けた皿。鏡《かがみ》や兜《かぶと》は空を飛び、長持《ながもち》、行李《こうり》は百足《むかで》のようにワサワサと。目出度《めでた》い歌と優《やさ》しい光に包まれて、皆《みな》に愛され仕事をまっとうしたモノたちが、次にゆくは極楽浄土《ごくらくじょうど》だ。目出度《めでて》ぇな。 長い間助けてくれてありがとうヨと、思わず両手も合わさる一年の締《し》めくくり。今年も良《え》ェ年でござんした。重畳《ちょうじょう》重畳』 「……こんなもンかな。うん」  手帳を睨《にら》んで、筆の尻《しり》で頭を掻《か》く仕草《しぐさ》も堂《どう》に入ったもの。雀《すずめ》のその様子を、鬼火《おにび》の旦那《だんな》と桜丸《さくらまる》が笑って見ていた。  百鬼夜行《ひゃっきやこう》が行ってしまうと、新年が明けた頃《ころ》。あちこちで挨拶《あいさつ》が交《か》わされる。 「明けましておめでとうさん」 「おめでとうさんでござんす」 「御慶《ぎょけい》申し入れまする」 「今年もよろしく頼《たの》んます」  雀も、旦那と桜丸に頭を下げた。 「明けましておめでとうさんでござんす。今年もなにとぞよろしくお頼み申し上げます」 「お頼み上げ豆腐《どうふ》は、お互《たが》いサンマの桜干《さくらぼ》しってナ」 「おめでとうさん。二人《ふたり》とも、今年も元気でいねぇな」  鬼火の旦那は、雀と桜丸の肩《かた》を抱《だ》いた。 「サァサァサァ。冷えた身体《からだ》を温め直しだ。鍋《なべ》の続きをヤるぜー」 「その前に、年があらたまったらまず若水《わかみず》だろ、桜丸」 「へぇ。よく知ってンじゃねぇか、雀」 「そイじゃあまぁ、庭の井戸《いど》で若水を汲《く》んできねぇな、雀。それで福茶《ふくちゃ》をいれてやるヨ」 「がってんだあ!」  雀は嬉《うれ》しそうに駆《か》けて行き、二人を急《せ》かす。 「早く早く」  はらほろと舞《ま》う小雪も、明け方までにはやみそうだった。初日の出を拝《おが》むのが縁起《えんぎ》が良いとされるので、大江戸《おおえど》っ子たちはまだまだこれから寝《ね》ずに盛《も》り上がる。  大江戸の一年があらたまった。 [#改ページ] [#挿絵(img/03_049.png)入る]   雀《すずめ》、封印《ふういん》の娘《むすめ》に会う  さて。無事新年が明けた。正月三が日は大方の商店は休み。大江戸っ子たちは、雑煮《ぞうに》と屠蘇《とそ》とおせちで過《す》ごす。  ありがたく初日の出を拝んだ雀は、水天宮《すいてんぐう》に初参り。「吉《きち》」のおみくじを引いた後、旦那《だんな》が若水《わかみず》で作ってくれた雑煮を食べ、やっと眠《ねむ》った。 「屠蘇はいらねぇ。茶をくれ」  そういう声で雀が目を覚ましたのは、昼をとうに過ぎた頃《ころ》だった。襖《ふすま》を開けると、| 裃 姿 《かみしもすがた》の百雷《ひゃくらい》が来ていた。 「八丁堀《はっちょうぼり》の旦那《だんな》。お、カッコいい〜」 「おお、雀《すずめ》。ここにいたのかェ」 「御慶《ぎょけい》申し入れまする〜」  雀は百雷の前で三つ指をついた。百雷は「わはは」と笑った。 「今年もよろしくお願い申し上げます」 「アイ、よろしゅうに」 「こんなとこで油売ってていいのかイ、旦那? おえらいさん家《ち》へ年始回りしなきゃならねぇんだろ」 「ナニサ、行く先々で屠蘇《とそ》を飲まされ足はヨロヨロ、もゥ閉口三宝《あやまりさんぽう》ヨ。後は明日明日」  百雷はそう言いながら裃《かみしも》を脱《ぬ》ぎ捨て、着流し姿《すがた》で寝転《ねころ》がった。 「二本差しの方々ぁ、もう二日から仕事だろ?」 「ソリャ、大江戸城《おおえどじょう》の話サ。俺《おれ》らぁ、三日に奉行所《ぶぎょうしょ》に出仕《しゅっし》するが挨拶《あいさつ》ばっかり。仕事らしい仕事は四日ぐらいからかの」 「じゃ、俺たちと一緒《いっしょ》なんだ」 「何か甘《あめ》ェもんはねぇのか、鬼火《おにび》の。汁粉《しるこ》とか大福《だいふく》とかヨ」 「俺ん家にそんなものがあるわけねぇだろうが」  鬼火の旦那は、福茶《ふくちゃ》と一緒に餅《もち》を持ってきた。 「餅と黄粉《きなこ》があるから、手前《てめ》ぇで焼きな」 「黄粉餅《きなこもち》か! そいつぁ、ありがてえ」  百雷は子どものように嬉《うれ》しそうに笑った。雀も笑った。  その日はずっと、鬼火の旦那と百雷と雀と三人で火鉢《ひばち》の傍《かたわら》で、ぷくぷくとふくれる餅を囲んで過《す》ごした。いつもは賑《にぎ》やかな大江戸の町もさすがに静かで、その静けさが庵《いおり》の庭に、部屋《へや》のうちに、染《し》み入るようだった。時折、チチッと小鳥が鳴いた。  おだやかなおだやかな午後。小さな部屋の中。鬼火の旦那は煙管《きせる》を吹《ふ》かしながら、百雷は餅を焼きながら、何やら難《むずか》しげな話をボソボソと話していた。どうやら鬼道《きどう》の話らしい。お上《かみ》に関する話も混《ま》じっているようだ。雀《すずめ》には何が何やらわからないので、本を読んでいた。だが、こんな何をするでもない時をゆるゆると過《す》ごしていると、雀はついウトウトしてしまう。ハッと気づいてまた本の文字を追い、そのうちまたウトウト……。温かい部屋《へや》と香《こう》ばしい餅《もち》の香《かお》り。そして大人二人《おとなふたり》の懐《ふところ》に抱《だ》かれているような心地|好《よ》さが、このうえもなかった。 「あ〜、気持ちいい……」  まどろみながら、雀は何度もそう思った。  そして日はたちまちに暮《く》れて、百雷《ひゃくらい》は帰り際《ぎわ》に雀に言った。 「そうそう。蘭秋《らんしゅう》がな、初興行《はつこうぎょう》にぜひ来てくれと言ってたぜ。桜丸《さくらまる》とポーも招待《しょうたい》するってヨ」 「えっ、ホント!? やり——!」  芍薬《しゃくやく》、牡丹《ぼたん》、百合《ゆり》、蘭秋と賞される、美形の誉《ほま》れも高き蘭秋|太夫《たゆう》。大江戸《おおえど》三大|座《ざ》の筆頭、日吉座《ひよしざ》の一|枚看板《まいかんばん》の花形役者。雀たちとは、とある事件をきっかけにすっかり懇意《こんい》の仲となった。 「正月から日吉の芝居《しばい》見物たぁ、目出度《めでて》ぇな!」  一月四日。 「親方! 今年もなにとぞよろしくお願い申し上げます!!」  壁《かべ》一面の真《ま》っ赤《か》な大首《おおくび》の親方の前で、雀、ポー、キュー太は、頭を畳《たたみ》に擦《す》り付けて新年の挨拶《あいさつ》をした。 「挨拶なんざどうでもいい。雀、年末年始の記事はまとまってるんだろうな!?」  相変わらずの大声で、親方は雀を吹《ふ》き飛ばすように言う。 「ヘイッ。そりゃあもウ、案じなさんなア、湯屋《ゆや》の煙《けむり》だぁってなもンで。挿絵《さしえ》のことは、キュー太が万事|呑《の》み込《こ》み山のほととぎす。とくれば、俺《おれ》たちゃあ、ちょっくら急ぎの取材で……」 と言いつつ、雀《すずめ》とポーは立ち上がり、 「日吉座《ひよしざ》に行っつくらあ———っ!!」 と、脱兎《だっと》の如《ごと》く駆《か》け出した。後ろで破鐘《われがね》が鳴った。 「いい度胸《どきょう》だ、てめぇら——っ!」  かわら版《ばん》屋を飛び出しても、雀とポーはまだ走った。 「もしやの末まで祟《たた》られそうだよー!」 「行け行け三宝《さんぽう》〜〜〜っ!!」  大江戸《おおえど》三大座の新春|興行《こうぎょう》が始まった。  それぞれの劇場《こや》の前は、いつにも増《ま》して華《はな》やかな雰囲気《ふんいき》が溢《あふ》れていた。呼《よ》び込《こ》みや口上《こうじょう》役の着物の柄《がら》も派手派手《はではで》しく、舞踊《ぶよう》の演目《えんもく》もお目出度《めでた》く、時に紅白《こうはく》の餅《もち》がまかれたり。お目出度いことが大好きな大江戸っ子は、目出度い出し物を見て、さらに目出度い気分になろうと芝居《しばい》見物に押《お》しかける。 「昨年は、並々《なみなみ》ならぬご厚情《こうじょう》を賜《たまわ》りまして、まことにありがとうござんす。今年もさらなるご贔屓《ひいき》のほどを、なにとぞよろしゅうお願い申し上げまする〜」 「菊五郎《きくごろう》!!」 「千両|湯島《ゆしま》!!」  日吉座座長「湯島の菊五郎」の挨拶《あいさつ》に、大向《おおむ》こうから声が飛ぶ。舞台《ぶたい》には、日吉の看板《かんばん》を背負《せお》う花形役者が、きらびやかな衣装《いしょう》をまとってズラリ勢《せい》ぞろい。その晴れやかなこと。 「藤十郎《とうじゅうろう》! 水もしたたるイイ男!!」 「芍薬《しゃくやく》、牡丹《ぼたん》、百合《ゆり》、蘭秋《らんしゅう》——っ!!」 「万両|伏見《ふしみ》!!」  雀、ポー、桜丸《さくらまる》と百雷《ひゃくらい》は、蘭秋が用意した桟敷席《さじきせき》に陣取《じんど》っていた。 「相変わらず綺麗《きれい》だぁ〜、蘭秋」 「あの着物の見事なこと。朱《しゅ》に金銀の鶴《つる》の刺繍《ししゅう》なんて、なんとも眩《まぶ》しいじゃないか」  蘭秋のその着物の柄《がら》そのまま、初興行最初の舞踊は、蘭秋と藤十郎による二|羽《わ》の鶴の舞いであった。初日の出を背景《はいけい》に、二|羽《わ》の鶴《つる》が華麗《かれい》に優雅《ゆうが》に戯《たわむ》れる様を舞《ま》う。 「なんとのゥ、寿命《じゅみょう》が延《の》びるヨ」  観客はウットリした。  二舞《ふたまい》目は、巫女装束《みこしょうぞく》の女たちによる神舞いで、これも神秘《しんぴ》的で実にありがたい雰囲気《ふんいき》に満ちていた。客の中には手を合わせる者が大勢《おおぜい》いた。  そして、いつもならここで短い芝居《しばい》が二つほど入るところだが今回はそれはなく、初芝居「白露姫縁結《しらつゆひめえんむす》びの鞘《さや》」が始まった。  蘭秋扮《らんしゅうふん》する白露は、男として育てられた女|剣士《けんし》。蘭秋の初の男|姿《すがた》に、客たちはどよめき、特に女客からは悲鳴のような歓声《かんせい》が上がった。 「こりゃぁ……なんとも艶《あで》やか!」  ポーは緑色の目玉を大きく見開いた。 「まさに、色|若衆《わかしゅう》そのものだの」  百雷《ひゃくらい》も感心したように、顎《あご》の毛をこすった。 「男だけど女役者の蘭秋が、男を演《えん》じてるってわけだな。ややこしいなぁ」  雀は苦笑いした。 「男姿も似合《にあ》うもンだな。さすが男……と言うべきか?」  桜丸《さくらまる》も苦笑い。 「何やら倒錯《とうさく》的だネ」  ポーは、ふふ〜んと鼻から煙《けむり》を吐《は》いた。  この白露、身分を偽《いつわ》り町中をふらふら遊び歩くのが趣味《しゅみ》。そうして、ひょんなことから剣の試合に出ることになり、そこで連覇《れんぱ》を重ねていた剣士を負かしてしまう。藤十郎《とうじゅうろう》扮するこの剣士|青嵐《せいらん》は、実は若き殿様《とのさま》。同じく身分を偽り、町中で遊んでいたところ、白露と出会うのだ。  物語の前半の見所は、二人の剣の試合の迫力《はくりょく》。計算された殺陣《たて》以上の、本気とも思える打ち込《こ》み合いが観客のド肝《ぎも》を抜《ぬ》いた。 「これぞ、蘭秋ヨ」  桜丸《さくらまる》が唸《うな》る。 「女じゃあ、とてもあそこまでやれねぇやナ」  勝負がつくや、客席からは割《わ》れんばかりの拍手《はくしゅ》が起こった。  そして、剣《けん》を交えたことでお互《たが》いが一目|惚《ぼ》れしてしまい。白露《しらつゆ》は、身分と性別《せいべつ》を偽《いつわ》っていることを悩《なや》み、青嵐《せいらん》は「男に惚《ほ》れてしまった」ことを悩む。性別の洒落《しゃれ》が幾重《いくえ》にもかかっていることに、観客は大笑いした。 「殿様《とのさま》だからねぇ。子作りしなきゃならない身分ゆえに、男を娶《めと》るわけにはいかないんだよねぇ。まるで誰《だれ》かサンの話のようだねぇ」 「ナニサ、囲ってやりゃあいいのヨ」  ポーと桜丸は、百雷《ひゃくらい》を見て嫌味《いやみ》たらしく笑って言った。百雷は、バツが悪そうに咳払《せきばら》いした。  休憩《きゅうけい》を挟《はさ》み、物語の後半の見所は、城《しろ》で催《もよお》される若様《わかさま》の嫁《よめ》取りの宴《うたげ》の模様《もよう》。  きらびやかに着|飾《かざ》った役者が入れ替《か》わり立ち代わり、なんとも華《はな》やかで目出度《めでた》い様子に、観客たちから鳴り止まぬ拍手が送られる。  一方、白露を男として育てた偏屈者《へんくつもの》の父のもとで、当然嫁取りの宴へも行かず家で悶々《もんもん》としていた白露のもとへ占《うらな》い師《し》がやってきて、嫁取りの宴へ行けと助言をする。そこに恋《こい》しい男がいると。占い師は、白露に美しい着物を用意してやる。その衣装《いしょう》の早代わりに、客たちがワッと沸《わ》いた。美しい女|姿《すがた》となった蘭秋《らんしゅう》に、「待ってました!」の声が飛ぶ。 「んん? この話……何かに似《に》てるような……」  雀《すずめ》は奇妙《きみょう》な印象を受けた。  嫁取りの宴に現《あらわ》れた白露と殿様青嵐。お互《たが》い「恋しい相手」とは知らずに、それでも否応《いやおう》なく惹《ひ》きつけられ、二人《ふたり》は舞《まい》を舞う。その姿に、早くも涙《なみだ》する客もいた。  殿様への思いが募《つの》ることに後ろめたさを感じ、その場から逃《に》げ出す白露。それを追う青嵐。暗い庭の片隅《かたすみ》でひしと抱《だ》き合う二人に、青嵐の命を狙《ねら》う曲者《くせもの》が襲《おそ》いかかる。一転、艶《あで》やかな色打ち掛《か》けを脱《ぬ》ぎ捨《す》て、賊《ぞく》に立ち向かう白露の腰《こし》には刀。 「待ってました!」 と、再《ふたた》び大向《おおむ》こうから声が飛ぶ。  青嵐《せいらん》とともに賊《ぞく》を退《しりぞ》けたものの、いたたまれなくなった白露《しらつゆ》は闇《やみ》にまぎれて去る。そこに鞘《さや》を残して。青嵐はこの鞘を元に、持ち主を探《さが》した。この展開《てんかい》に、雀《すずめ》は呆気《あっけ》に取られた。 「シンデレラだ……!」  青嵐が、鞘に合う刀身の持ち主を探し当ててみれば、それは恋《こい》しい剣士《けんし》。白露も、恋しい男が殿様《とのさま》であったことを知る。 かくしてすべての憂《うれ》いは去り、あとは大団円《だいだんえん》。白露と殿様の婚礼《こんれい》がにぎにぎしく行われる。 「ヤレ、目出度《めでた》や!」 「目出度や!!」  花|吹雪《ふぶき》が舞《ま》い、役者たちが鈴《すず》を持って歌い踊る。客たちも総立《そうだ》ちで手を打ち、踊る。 「イヤ、なんとも言えぬ。華《はな》やかだのゥ」  百雷《ひゃくらい》も拍手喝采《はくしゅかっさい》した。 「斬新《ざんしん》な物語だよネ」 と言うポーに、雀は興奮《こうふん》しきりで言った。 「これはシンデレラだ! シンデレラだよ!」 「しんでれら? 何ソレ?」 「そういう絵本があって……えー……舞踏会《ぶとうかい》の後ガラスの靴《くつ》を忘《わす》れて、王子様はそれの持ち主を探して……」  雀は、この手の童話などをまともに読んだことなどなかった。 「ガラスの靴じゃ、歩けないんじゃないの? 踊るなんて無理だよ」 と、ポーに言われ、 「そうだよな」 と、納得《なっとく》してしまった。しかし、とにかく雀は、この脚本《きゃくほん》を書いた者に無性《むしょう》に会いたくなった。  ご招待《しょうたい》のお礼も兼《か》ねて、皆《みな》で楽屋を訪《たず》ねた。 「百雷《ひゃくらい》さま!」  嬉《うれ》しそうにすがってくる蘭秋《らんしゅう》を、百雷は優《やさ》しく抱《だ》いた。 「良《え》ェ舞台《ぶたい》だったぜ、蘭秋。舞《ま》いは華《はな》やか、芝居《しばい》は面白《おもし》れぇ。言うことなしだなァ」 「嬉《うれ》しゅうござんす」  見つめ合う二人を包む空気は、しっとりとなまめかしかった。 「イイ雰囲気《ふんいき》なんだけどなぁ、この二人《ふたり》」 と、雀《すずめ》は首をすくめる。 「お招《まね》きありがとう、太夫《たゆう》。春から縁起《えんぎ》のいいものを見せてもらって、寿命《じゅみょう》が延《の》びたよ」 「殺陣《たて》にゃあ感心したぜ。面《つら》がまぶしいだけじゃねぇのが、さすがの万両|伏見《ふしみ》だなぁ」  蘭秋は、皆《みな》の前でぴっしりと三つ指をついた。 「ありがとうござんす。これも偏《ひとえ》に皆様のご贔屓《ひいき》のおかげ。今年もなにとぞよろしくお願い申し上げます」  藤十郎《とうじゅうろう》や菊五郎《きくごろう》も挨拶《あいさつ》にやってきた。 「おめでとうござんす」 「おめでとうござんす。今年もよろしゅうお頼《たの》み申し上げます」 「初日から大入り満員たぁ、景気の良ェことだな、菊五郎」 「おかげさんでござんす」 「菊五郎さん」  雀は、菊五郎の袖《そで》を引いた。 「今度の芝居の脚本《きゃくほん》は、誰《だれ》が書いたんだい?」 「そうそう。斬新《ざんしん》で面白《おもしろ》かったよ。やっぱり娘《むすめ》さん?」 「ありがとうござんす。へぇ。手前の娘、雪消《ゆきげ》にござんす」 「いつもの芝居よりずっと長かったね。だから間の芝居がなかったんだ。あ、でも面白かったから、時間はあっという間に過《す》ぎたよ」  菊五郎は頭を下げた。 「まだまだ一の鳥居《とりい》を越《こ》さぬ若輩《じゃくはい》者ではござんすが、考え方がちょイと変わっておりやして。そういうところを、蘭秋《らんしゅう》や藤十郎《とうじゅうろう》が面白《おもしろ》いと言ってくれやしてねぇ」 「雪消師匠《ゆきげししょう》が書く脚本《きゃくほん》は、型にはまってなくて、アタシにぴったり。アタシが売れたのは師匠のおかげでもありんすよ」 「コレサ、太夫《たゆう》。師匠だなんて」 「雪消師匠の脚本は、大江戸《おおえど》一|面白《おもしろ》いと思っておりやす。師匠の称号《しょうごう》に充分値《じゅうぶんあたい》いたしやすとも」 「俺《おれ》、雪消さんに会いたいんだ、菊五郎《きくごろう》さん。話を聞きてぇ」  菊五郎たちが顔を見合わせる奇妙《きみょう》な間があった。 「雀《すずめ》サンにゃあ、ちょイと怖《こわ》いかも知れませんよ?」  菊五郎は苦笑いした。 「?」  日吉座《ひよしざ》は、両国《りょうごく》の南にある。  両国橋|界隈《かいわい》は、大江戸でも最も賑《にぎ》やかな場所の一つである。夏には納涼《のうりょう》花火大会が行われ、両国橋の上も下も、大江戸っ子で埋《う》め尽《つ》くされる。  それ以外でも、橋の両側には芝居《しばい》小屋、見世物小屋の他、茶屋や屋台、ぼて振《ふ》りに大道芸人たちが多く集まっていて、それ目当ての客たちで賑やかだった。  ただこの周辺に居《い》ついているのは、浅草《あさくさ》や深川《ふかがわ》とはまた別の、大江戸でも下層《かそう》階級の者たちだった。その日|暮《ぐ》らしの身を埃《ほこり》まじりの風に吹《ふ》かれながら、これっきりの小銭《こぜに》を握《にぎ》り締《し》めて、安い酒を呑《の》んで暮らすような者たち。額《ひたい》に汗《あせ》して働く気などさらさらない者、またさまざまな訳《わけ》で働けぬ者など。さらに、無頼《ぶらい》の者たちや、正体不明の者の姿《すがた》もあった。  またここで商《あきな》われる物は、安いが時に粗悪《そあく》な物も多く、お世辞にも高級な物など一つもなかった。だが、ただのぼて振りが売る野菜や魚から、媚薬《びやく》だの魔物《まもの》だのの怪《あや》しげな物、盗品《とうひん》や扱《あつか》い禁止《きんし》の違法《いほう》な物まで、ここで揃《そろ》わぬ物はないと言われている。  このように雑多《ざった》な者と物で溢《あふ》れかえった場所だけに、小屋と小屋の細い道の奥《おく》がどこへ繋《つな》がっているかわからないような、昼町にあって、どこか「夜町」を思わせるような暗さが、路地や小屋の裏《うら》、橋の下にわだかまっているようだった。  日吉座《ひよしざ》は、この目と鼻の先にある。  大江戸《おおえど》一と言われる劇場《こや》は上流の客の出入りも大江戸一で、表通りを行き交《か》うのは大店《おおだな》の商人たちや奥方《おくがた》、頭巾《ずきん》をかぶった|武士《ぶし》、それを目当ての商家もりっぱな店|構《がま》え揃《ぞろ》い。しかし、裏通りを少し奥へ行くだけで、そこには両国の暗い部分から染《し》み出したような薄闇《うすやみ》があった。  それは「陰《いん》の気」であり、大江戸の「裏の顔」であった。  雀《すずめ》の元いた世界にもあった「裏の社会」というものが、大江戸にもある。それは、雀にも理解《りかい》できた。獣面《けものづら》でも虫面でも、面構えの良くない者というのはわかるもので、そういう連中が、狭《せま》い路地の奥の方から大通りを伺《うかが》っているのを時折見かける。 「ここにもヤクザはいるんだなぁ」 と、雀はしみじみ思う。  しかし雀にとって、ヤクザや裏社会はまだわかりやすい方で、いまだによくわからないのが「陰の気」である。  陰の気は、憎《にく》しみや悲しみや怨《うら》みといった「負の感情《かんじょう》」と関《かか》わっているらしいがそれだけでなく、やはりどうして発生するのかよくわからない。鬼火《おにび》の旦那《だんな》も言っていた「気が澱《よど》む」こととも関わりがあるらしい。「夜町」の者たちが纏《まと》っている、どこか妖《あや》しくなまめかしい雰囲気《ふんいき》とか、光と影《かげ》、昼と夜の関係とか、それはもう「鬼道《きどう》」、魔術《まじゅつ》の話なのだ。  そう。ここは、魔都なのだと———。  雀は、たまに思い知る。  空に龍《りゅう》が飛んでいても、上司《じょうし》が首だけの化け物でも、猫《ねこ》が二本足で立ってチョッキを着てパイプを吹《ふ》かしていても、おんぶしてもらって空を飛んでも感じなくなった「魔」を、雀はふと、そして肌《はだ》に沁《し》みるように感じることがある。  それは、何気ない風景の中に時折|潜《ひそ》んでいた。  例えば、家屋の中のちょっとした暗がり。溝《みぞ》の中。木の根元。天井《てんじょう》の隅《すみ》。少し開いた襖《ふすま》の間……。そこにいる何かを、視界《しかい》の端《はし》っこが捕《とら》らえる。それは形になっていたりなっていなかったり、こっちを見ていたり見ていなかったりする。ハッと顔を向けるとたいがいは何もないが、たまに「何か」と目が合って、雀はゾッとすることがあった。  その「何か」は、何もしない。同じように暗がりからこちらを伺《うかが》っているヤクザどもと違《ちが》い、盗《ぬす》んでやろうとか、たかってやろうとか殴《なぐ》ってやろうとか、そういう「目的」などない。それゆえに、却《かえ》って空|恐《おそ》ろしい気がするのだ。目が合った「何か」は、雀を見つめ続けたまま、じわりじわりと消えてゆく。雀は息を呑《の》んでそれが消え去るまで待ち、やっと一息つく。 「そのうち気にならなくなるよ」 と、ポーや桜丸《さくらまる》は言う。そうだろうと雀も思う。  あれも、この大江戸《おおえど》にあっては自然な存在《そんざい》で、あれの棲《す》む暗闇《くらやみ》の奥《おく》は、雀がまだまだ知らない大江戸の「深部」なのだ。  それを思う時、雀の肌《はだ》がいつの間にか粟立《あわだ》つのは、 「俺《おれ》が人間の証拠《しょうこ》なんだろうか……?」 と、思ったりした。  表通りは華《はな》やかに、裏《うら》通りには暗い闇。まるで「夜町」の大通りに並ぶ娼館《しょうかん》と同じに、日吉座《ひよしざ》は光と影《かげ》の境目《さかいめ》に建っているようだった。  その日吉座の中を、蘭秋《らんしゅう》に案内されて雀とポーは歩いていた。菊五郎《きくごろう》の娘《むすめ》、雪消《ゆきげ》に会うために。  大きな劇場《こや》の中だから暗闇も多く、空気は冷《ひ》んやりとしていた。巨大《きょだい》な舞台装置《ぶたいそうち》のカラクリが闇の中にうずくまっているのは、それだけで雀には不気味に見えた。天井の隅には、何かが巣《す》を作って潜《ひそ》んでいた。赤い目玉だけがこちらを見ていた。  蘭秋《らんしゅう》はやがて、細い階段《かいだん》を上り始めた。ぎしりぎしりと足元が音をたてる。  複雑《ふくざつ》に入り組んだ階段《かいだん》と廊下《ろうか》。その脇《わき》を、いくつもの小部屋《こべや》が通り過《す》ぎていった。物置や衣装《いしょう》部屋や座員《ざいん》の部屋。暗い部屋の中にきらびやかな衣装が並《なら》んでいて、その明と暗の対称《たいしょう》がひどく奇妙《きみょう》に感じられた。壁《かべ》一面、毒々しい赤色で塗《ぬ》られた部屋もあった。女たちが集まって煙草《たばこ》を吹《ふ》かしている様子は、吉原《よしわら》のようになまめかしかった。鬘《かつら》が並んでいるのは、床山《とこやま》の部屋なのだろう。 「劇場《こや》の裏側《うらがわ》を見られて面白《おもしろ》いネ」  ポーは興味《きょうみ》深げにキョロキョロしていたが、雀《すずめ》は、ふと上を見上げた時の天井《てんじょう》の暗さにひやりとしていた。 (いくら建物の中が暗いって言っても、あんなに真っ暗ってことはない。ってことは、あそこには何かがいるんだ)  気づかなければなんということはない。気づいてもどうということはない。あれは、ただそこに居《い》るモノなのだ。ポーも蘭秋《らんしゅう》も、日吉座《ひよしざ》の者たちも気にしていない。雀もやがては「気にならなくなる」モノなのだ。  それでも、いつか気にならなくなっても、自分の肌《はだ》は粟立《あわだ》ち、首筋《くびすじ》の毛がピリッと逆立《さかだ》つような、この感覚は無くならないだろうと雀は思った。 「人間」である雀が、決して踏《ふ》み込《こ》めない領域《りょういき》のものだから。それが、この大江戸《おおえど》では当たり前のようにそこに居る。雀は、それがそこに居ることには慣《な》れても、その存在《そんざい》とその奥《おく》にあるものには、決して慣れることはないだろうと思えた。 「さ。着きましたェ」  ひときわ細い階段を上った先だった。  その部屋は、劇場の天井裏にあった。 「雪消《ゆきげ》サン、入りやすよ?」  引き戸をカラカラと開ける。雀は、ハッとした。  その部屋は、天井から床までの格子《こうし》で、二つに区切られていた。 (あれ? 何だ、これ? まるでブタ箱じゃん!?)  それは、雀には馴染《なじ》みの場所を思い出させた。 「座敷牢《ざしきろう》だよ、雀《すずめ》」  ポーが、小声で言った。 「え……!? やっぱり牢屋……!?」  雀は息を呑《の》むほど驚《おどろ》いた。 (なんで? なんでこんなとこに牢屋があンの??) 「初|芝居《しばい》、見てくれた?」  蘭秋《らんしゅう》が声をかけると、格子《こうし》の向こうで白い姿《すがた》が動いた。 「上出来だ、太夫《たゆう》。わっしの思った通りに演《えん》じてくれて嬉《うれ》しいヨ」  落ち着いた声だった。  雪消《ゆきげ》は、どこかにまだ幼《おさな》さを残したような、若い人型の女だった。年の頃《ころ》は、ちょうど桜丸《さくらまる》ぐらい。白い着物に紺袴《こんばかま》。真っ白い肌《はだ》と、真っ白い髪《かみ》。その中で、黒い瞳《ひとみ》がまるで黒|真珠《しんじゅ》のようだった。 「今日は、アタシのお友達を連れて来やしたよ」 「大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋の雀とポーだろう。太夫から話を聞いていたから、すぐにわかったよ」 と、雪消は笑った。笑顔《えがお》は屈託《くったく》なく、美しかった。  牢内には文机《ふづくえ》があり、草紙や紙や筆がたくさん置かれ、火鉢《ひばち》には鉄瓶《てつびん》、お茶の傍《かたわ》らにはお菓子《かし》。その向こうに布団《ふとん》が敷《し》かれ、衣桁《いこう》には藤《ふじ》の柄《がら》の着物が掛《か》けられていた。  何も変わったところなどなかった。それは、ふつうの女の部屋《へや》だった。ただ、座敷牢ということをのぞいては。そして、牢の外側と内側、部屋の中の天井《てんじょう》一面に、何かの札《ふだ》がびっしりと貼《は》られてあることをのぞいては。 「…………」  座敷牢というものを見たのも初めてだった雀は、この奇妙《きみょう》さに呆然《ぼうぜん》とした。牢の格子を覆《おお》う無数の札には、記号のような文字のようなものが描《えが》かれ、それを描いたものは明らかに血液《けつえき》なのだと、赤黒く変色した色からもわかった。 「初めまして、雪消サン。大首のかわら版屋の文芸|担当《たんとう》のポーです。あなたの文才には、とても興味《きょうみ》があるなぁ」 「渡来人《とらいじん》と話すのは、わっしも初めてだ。ぜひ向こうの話を聞きたいねぇ」  雪消《ゆきげ》は、煙管《きせる》の煙《けむり》をゆっくりと吐《は》いた。 「ほらっ、雀《すずめ》」  雀《すずめ》はポーに小突《こづ》かれた。 「あっ、ああ。雀です。こんにちわっ」 「はははは」  雪消は、あどけなく笑った。 「太夫《たゆう》から話を聞いて知ってはいたのだが……。この世界に来て、よくぞ生き残ったものだな、雀。しかも、ちゃんと大江戸《おおえど》の水を飲んで。なぁ、太夫」 「ええ。さぞやご苦労なすったことでありんしょう」 「おまィの冒険《ぼうけん》もぜひ聞きたいものだ。向こうの世界の話もな。おまィのかわら版《ばん》は、いつも読んでいるよ。大江戸見聞録は、大そう面白《おもしろ》かったぞ」  雪消の言葉は、乾《かわ》いていて優《やさ》しかった。同情《どうじょう》も哀《あわ》れみもなく、ただまっとうな好奇心《こうきしん》があるだけ。それは雀の心を軽くした。  柔《やわ》らかな笑顔《えがお》の絶《た》えないこの娘《むすめ》が、なぜ座敷牢《ざしきろう》に居《い》るのか、雀は知りたくなった。しかし、今はそれは訊《き》いてはいけないと思った。 「俺《おれ》も雪消さんに訊きたいことがいっぱいある。また来ていい?」 「いいとも」  雪消はおだやかにそう言って、煙管を吹《ふ》かした。 「雪消さんは、ここにずっといるのかイ?」 「うん。わっしはここから出られんが」 と、雪消はあっさりと言った。 「そうそう不自由でもないサ。太夫たちの芝居《しばい》はここから見られるし」  雪消が壁《かべ》の戸を開くとそこにも格子《こうし》があり、そこから舞台《ぶたい》がよく見えた。また別の壁の戸を開くとそこにも格子があり、そこから大江戸城《おおえどじょう》が見えた。窓《まど》からは風が通り、陽《ひ》がよく射《さ》した。 「な。ここはとても日当たりがいいのだヨ」 「うん。俺《おれ》の長屋より明るい」 「ははははは」  雪消《ゆきげ》のその笑顔《えがお》に、雀《すずめ》は (真っ白いワンコみたいだ) と思った。 「あ、そうだ。俺、雪消さんに言いたいことがあってさあ!」  雀は、座敷牢《ざしきろう》の前に座り込んだ。 「今日の芝居《しばい》の話って、俺の元いた世界にある絵本の話と、すっげぇよく似《に》てるんだぜ!? まさかこの世界の人がそんなこと知るわけないだろ? だからビックリしちまってサァ」 「ほぅ、それは興味深《きょうみぶか》いな。その話はどんなのだエ? 聞かせてくれ」 「エートな……。待ってくれ、詳《くわ》しいことを思い出すから。エート……」  その様子を見て、ポーと蘭秋《らんしゅう》はクスリと笑った。 「お座布《ざぶ》を持ってきやしょう。お茶もね」  蘭秋は囁《ささや》くように言った。  その日雀は、雪消と芝居の脚本《きゃくほん》のことをたくさん話した。 「不思議《ふしぎ》な人だなぁ……」  ポーと二人《ふたり》で帰りながら、雀はつぶやくように言った。 「なんか、生身じゃないような……捉《とら》えどころがないような……。でもなんか……キラキラ光ってるみたいな……。コゥ、ふわふわ落ちる綿雪《わたゆき》みたいだ」 「詩人だね、雀」  ポーはフッと笑った。 「はかなくもたおやか。冴《さ》えすましたところがなく、どこかあどけなくて」 「うんうん」  雀《すずめ》は激《はげ》しく頷《うなず》いた。 「羽二重《はぶたえ》ずれしているのだよ」 「羽二重ずれ!?」 「外に出ることなく、他と交わることもなく、軒下三界《のきしたさんがい》のことなど知る由《よし》もない。まぁ、一種の仙人《せんにん》だネ」 「……いつから牢屋《ろうや》にいるんだろう? そもそも、なんで牢屋なんかにいるのかなぁ? 訊《き》いちゃマズイと思ったから訊かなかったけどサ」 「しかも、あれはただの座敷牢《ざしきろう》じゃない。あちこちにビッチリ貼《は》ってあったお札《ふだ》を見たろう、雀。あれは封印《ふういん》だよ。まちがっても雪消《ゆきげ》サンが表に出ないようにしてあるのサ」 「なんでそこまですンだろ? 菊五郎《きくごろう》さんって、そんなことするような人にゃ見えねぇけど……。自分の子どもを牢屋に閉《と》じ込《こ》めるなんてサ……」  ポーは、パイプの煙《けむり》を大きく吹《ふ》かした。 「あれは、白鬼《しろおに》だネ」 「白……鬼!?」 「菊五郎サンは、鬼族《おにぞく》だろうなぁとは思ってたけど。やっぱりそうだったんだなぁ」 「白鬼って……初めて聞くけど」 「ボクもあまり詳《くわ》しいことは知らなくてネ。桜丸《さくらまる》か旦那《だんな》に訊いてみよう」  翌日《よくじつ》。「うさ屋」の二階で昼飯を食いつつ、雀とポーは桜丸に話を聞いた。 「鬼族ってなぁ、眷属《けんぞく》が多くてなぁ」  ぽってり厚焼《あつや》き玉子で熱燗《あつかん》をやりながら、桜丸は言った。 「赤鬼、青鬼から、山姥《やまんば》に山爺《やまじい》、小豆《あずき》とぎ、青坊主《あおぼうず》、サザエ鬼《おに》、磯女《いそおんな》、ガンギ小僧《こぞう》、水虎《すいこ》、うわん、牛鬼《うしおに》。目玉妖《めだまよう》もだいたい鬼族に入るし……」 「へぇ、磯女とかもそうなんだ」 「形のねぇ[#「形のねぇ」に傍点]奴《やつ》らも多いぜ。首かじり、朧車《おぼろぐるま》、ダル、魍魎《もうりょう》……」 「でも、白鬼《しろおに》って聞かないね」 「白鬼は、血がもうだいぶ薄《うす》いのヨ。もともと数が少なかったらしいぜ。で、他の血と混《ま》じりやすい筋《すじ》でな」 「ああ。だから、菊五郎《きくごろう》サンって何者かわかりづらかったんだ」  ポーは納得《なっとく》した。 「菊五郎は人型だが、同じ白鬼でも獣面《けものづら》の奴もいる。もう形はバラバラだ。でな、そういう中で、たまに純血種《じゅんけつしゅ》が生まれることがある。先祖《せんぞ》返りってやつだ。これが、女にしか出ねぇ」 「それが……雪消《ゆきげ》さん!?」 「おそらくな」  桜丸《さくらまる》は、グビリと酒を呑《の》んだ。 「そのことと、雪消サンが座敷牢《ざしきろう》に封印《ふういん》されてることとは関係があるのかい?」 「白鬼の本性は、人喰《ひとく》いなのヨ」 「!」  雀《すずめ》は思わず箸《はし》を止めた。 「雪消がそうかどうかは知らねぇぜ?」 と、桜丸は付け加えた。 「まぁ、人喰いは白鬼だけじゃねぇけどヨ。だが、首かじりや魍魎《もうりょう》のように屍骸《しがい》を喰う奴らならいざ知らず、生きてる奴をガリガリ喰うのは、ご法度《はっと》だ。そりゃ、それでも喰う奴らもいねぇとは言わねぇが」 「屍骸でもダメなんだよ。勝手に食べるのは」  ポーは雀にそう言ったが、雀は、 (あらためて言われなくてもわかる) と、思った。 「首かじりや魍魎やダルっていうのは、たまさかに出るモノであって、そこに居るモノ[#「そこに居るモノ」に傍点]じゃないけどネ」 「大昔の白鬼《しろおに》は、荒《あら》い奴《やつ》らだったと聞いたぜ。コゥ、赤鬼や青鬼どもとは一線を引いたモノで、もっと純粋《じゅんすい》な存在《そんざい》だったってな。力そのものと言うか、嵐《あらし》のようだったと。そういう意味じゃ、神霊《しんれい》に近かったのかも知れねぇな」 「神様になった鬼族《おにぞく》もいるけど……。そういう意味じゃ、白鬼たちは神になれなかった一族なんだね」 「純血《じゅんけつ》の白鬼……」  雀《すずめ》は、雪消《ゆきげ》の美しい黒い瞳《ひとみ》を思った。どこまでも透《す》き通った、宝石《ほうせき》のような眼差《まなざ》しだった。あの瞳を、どこかで見たような気がした。 「まぁなンにせよ。お前《め》ぇでなくとも、純な白鬼を拝《おが》めるなぁ、ある意味|恵方果報《えほうかほう》ヨ、雀。なんでか知らねぇが、ガンと封印《ふういん》されてンなら、安心して話もできらあ。せいぜい相手してやンな。珍《めずら》しいモノはお互《たが》いサマだしなァ」  桜丸《さくらまる》は、そう言って笑った。 「うん……」  雀は、なぜか無性《むしょう》に雪消に惹《ひ》かれる思いがした。それはなぜなのかはわからない。雪消と同じく、まっとうな好奇心《こうきしん》からなのかも知れない。ただ、あの瞳。どこかで見た眼差しが、雀の心をさざめかせる。  雀は昼飯を食べ終えるや立ち上がった。 「雪消さんは、菊屋《きくや》の豆大福が大好きなんだってさ。俺《おれ》持ってってくる!」  元気よく路地を走ってゆく雀を二階から眺《なが》めながら、桜丸は面白《おもしろ》そうに笑った。 「雀もいよいよ木《こ》の芽時《めどき》かネ。へへへ」 「そんな風にゃ、見えないがねェ」  ポーは、意味深に笑ってパイプを吹《ふ》かす。 「ナニサ、色恋《いろこい》は大点違《おおてんちが》いから始まるもンだろ!?」 「どのみち、相手が封印されてるとあっちゃあ、間違いも起こるまいヨ」  ポーが肩《かた》をすくめながら吐《は》いたパイプの紫煙《しえん》が、冬の空へ舞《ま》い上がって行った。 [#改ページ] [#挿絵(img/03_084.png)入る]   雀《すずめ》、料《りょう》られる 「こんちは、雪消《ゆきげ》さん」  菊屋《きくや》の豆大福を後生大事に抱《かか》えて、雀《すずめ》は雪消に会いに行った。 「おお、雀。また来てくれたのかイ」 「あ、ご飯中?」 「いいサ。おいで」  格子《こうし》の向こうで、雪消は昼飯の最中だった。 「わっしは、この合歓豆腐《ごうかんどうふ》が好きでなぁ」  豆腐《とうふ》の上に餅《もち》を乗せ、葛《くず》あんをかけた合歓豆腐で、雪消は一杯《いっぱい》やっていた。出汁《だし》と生姜《しょうが》と花がつおのいい匂《にお》いが、雀の鼻をくすぐった。 「餅はむっちり、豆腐はつるっと。それぞれがあんをなまめかしくからませて……。ふふ、艶《つや》っぽい名前通りの品だと思わんか?」 「?」  雀は、意味がわからなかった。 「そうか。合歓がわからんのだな」  雪消は「ははは」と朗《ほが》らかに笑った。 「ごうかん」というと、「強姦《ごうかん》」しか思い浮《う》かばない雀は、自分の頭をぽかりと殴《なぐ》った。その時、何かを思い出しかけた。 「んん? ……あ、そうだ。菊屋《きくや》の豆大福を持ってきたぜ」  雪消の黒い瞳《ひとみ》が、キラキラと光った。 「ヤレ、嬉《うれ》しや。わっしは酒も好きだが、甘いものも大好きなのサ。百雷殿《ひゃくらいどの》と同じだ」  雀《すずめ》と雪消《ゆきげ》は笑い合った。 「『しんでれら』の話は面白《おもしろ》かったぞ。ああいう話をもっとしてくれ、雀」 「そのテの持ちネタ、少ないんだよな〜、俺《おれ》」  雀には、家で親から絵本を読んでもらった覚えなど、もちろんなかった。幼稚園《ようちえん》の先生が聞かせてくれたおとぎ話を、薄《う》っすらと記憶《きおく》しているだけ。 「白雪|姫《ひめ》は、顔がすごく可愛《かわい》らしかったから母親に嫌《きら》われてサ、殺されそうになるわけ」 「母上は、なぜ可愛い娘《むすめ》を嫌《きら》うのだエ?」 「自分が世界で一番|綺麗《きれい》でありたいから……?」 「なんと、こっち料簡《りょうけん》なことだのウ」 「魔法《まほう》の鏡《かがみ》ってのを持ってて、それに訊《き》くんだ。世界で一番綺麗なのは誰《だれ》だって。鏡はいつも、あなたですって答えてたんだけど、ある日、それは白雪姫ですって言ったもんだから、とんでもねぇっ! って」 「若《わか》さという美しさには勝てぬものを。鬼道《きどう》使いなら、若返りの秘薬《ひやく》でも作ればいいのサ。なあ、雀」 「そういう話じゃないって! アハハハハ」  豆大福を食べながら、雀は雪消としゃべり合った。 「階段《かいだん》が動くのかェ! 面白《おもしろ》いのウ! エレキテルというのは、なんともすごい力だの」 「ハハ。魔法《まほう》で空を飛ぶ方がスゴイと思うけど」  雪消は、雀の元の世界の話に無邪気《むじゃき》に驚《おどろ》き、喜んだ。 「ああ、イイ……。想像《そうぞう》がいろいろ広がるよ」  雪消は目を細めた。 「雀、今わっしは、とても新鮮《しんせん》な気持ちだよ。想像することが、わっしの生きる糧《かて》のようなものだからな。想像の世界が広がるということは、わっしの生きる意味も広がるということなのサ。ありがたい」  雀は、ちょっと思い切って訊《たず》ねてみた。 「雪消さんは……もうここから出られないのかい?」 「うん」  雪消《ゆきげ》は軽く頷《うなず》いた。 「そ……それでいいのかい?」 「仕方ない」  ふーっと、煙管《きせる》の煙《けむり》が漂《ただよ》う。 「コレサ、雀《すずめ》サン! 昼からズットいんしたのかエ?」  戸口で驚いて言ったのは蘭秋太夫《らんしゅうたゆう》。言われた雀は、さらに驚いた。大江戸《おおえど》の町は、すっかり夕まぐれていた。 「いけねえ!!」 「こン馬鹿野郎《ばかやろう》が!! 仕事ほっぽって油売りなんざ百年早エ!! わきめぇやがれ!!」  壁《かべ》も割《わ》れよと、大首《おおくび》の親方の怒号《どごう》が轟《とどろ》く。前座敷《まえざしき》にたむろうヒマ人どもも、思わずキャッと飛び上がった。 「すんまっせん!!」  親方の前で、雀はひたすら土下座《どげざ》するしかなかった。  この世界でまっとうに生きてゆくと誓《ちか》いを立てた。仕事を貰《もら》い、認《みと》められた。それこそが、雀の生きている証《あかし》だった。もちろん、ポーや桜丸《さくらまる》らと仕事をさぼって芝居《しばい》見物などに出かけたことはあったけれど、こんな風に、仕事のことがスッポリと頭から抜《ぬ》けてしまったことなど、雀は初めてだった。冷や汗《あせ》がドッと出る。 「ちィと慣《な》れてくりゃ、モゥこれだ! まったく尻《しり》にカラの付いたガキャあ、立ち切れねえ!」  親方の破鐘《われがね》は、雀の骨身《ほねみ》に沁《し》みた。 「まぁまぁ、親方。お小言《こごと》はそれぐらいに。冴《さ》えぬ中山《なかやま》やめのモチってねぇ」 と、ポーが割《わ》って入る。親方は盛大《せいだい》に舌打《したう》ちした。 「遅《おく》れた仕事を上げるまで、今日は帰るじゃねぇぞ、雀! 絵はとうに出来てンだからな!!」 「ヘイ!!」  雀《すずめ》は頭を畳《たたみ》に擦《す》り付けた。  さァ、それから雀は、水も漏《も》らさぬ集中力で版下《はんした》作りに取り組んだ。雪消《ゆきげ》の言葉じゃないけれど、これが雀の生きる糧《かて》、生きる意味の「かわら版屋」。ここまで培《つちか》ってきた信頼《しんらい》を、ここで失っては元も子もない。 「親方の言う通りだ。ちっと慣れてきて、気が緩《ゆる》んだんだ。アブネーアブネー」  思いもかけぬ大失態《だいしったい》に、雀の肝《きも》は大いに縮《ちぢ》んだ。  灯《あか》りが落ちた大首《おおくび》のかわら版屋。誰《だれ》もいない寒々とした奥座敷《おくざしき》で、蝋燭《ろうそく》の細い光を頼《たよ》りに、雀は仕事を続けた。  睦月《むつき》の夜はしんしんと冷え、冴《さ》え渡《わた》った夜気の中を何者かが飛ぶ影《かげ》が、煌々《こうこう》たる月明かりに照らされて窓辺《まどべ》に躍《おど》った。夜回りが打ち鳴らす拍子木《ひょうしぎ》の堅《かた》い音が、遠くからでもよく聞こえた。 「ヘックショイ! ウッ、寒《さみ》ィ。腹《はら》も減《へ》ったし、なんか温《あった》けぇもンでも……」  そういえば、雀は夕飯も喰《く》っていなかった。と、そこへ、 「おでん白菊塩梅《しらぎくあんばい》良し〜」 という呼《よ》び声が聞こえた。夜商《よるあきな》いのおでん屋だ。 「ありがてぇっ!!」  雀は台所にあった鍋《なべ》を持って、ソレッと表へ飛び出た。  鍋いっぱいに具とおつゆを入れてもらい、ほくほくと帰ってくる。出汁《だし》のよく滲《し》みた大根にかぶりつくと、美味《うま》さと温かさに身体中《からだじゅう》がじぃんとした。 「う、う、うめ———イ!!」  はふはふガツガツとおでんを喰《く》う雀のもとへ、親方の手下《てした》が一|匹《ぴき》、ちょこちょことお茶を持ってやってきた。 「……ありがとヨ」  お茶は、熱い梅《うめ》こんぶ茶だった。酸味《さんみ》がやわやわと、疲《つか》れをほぐしてゆく。身体が温まると、鼻水とともに涙《なみだ》が出てきた。 「へへ」  さて。もうひと頑張《がんば》り。  東の夜空を、朝日の露払《つゆはら》いのように流れ星が滑《すべ》っていった。  翌日《よくじつ》。向かいの「うさ屋」の、朝の盛《さか》りの時間もとうに過《す》ぎた頃《ころ》。 「で、できた〜〜〜!!」  雀《すずめ》は、徹夜《てつや》の疲れを吹っ飛ばすが如《ごと》く叫《さけ》んだ。  年末年始の一連の出来事を、大江戸紹介録《おおえどしょうかいろく》風に綴《つづ》った特別|長編《ちょうへん》かわら版《ばん》。さっそく親方に見てもらう。  大きな目玉をぎょろぎょろさせながら、雀の作品を品定めしている親方を、雀は鼻をすすりながらじっと待った。大失態《だいしったい》をやらかした上、ここでダメ出しをされては立《た》つ瀬《せ》のない雀の胸《むね》は、きゅーっと締《し》め付《つ》けられるようだった。こんな気持ちは久《ひさ》しぶりだ。 「う〜、緊張《きんちょう》する」  頭から血の気が引いて、頭痛《ずつう》がしだした雀だったから、親方から 「いいだろう。刷ってきな」 と言われた時は、ほっとして泣きそうになったほどだった。 「ありがとうござんす!!」 「雀、版下《はんした》はボクが持って行くから、ちょっと休みなよ」  ポーはそう言ってくれたが、雀は頭を振《ふ》った。 「いいんだ。これは俺《おれ》の仕事だからサ。物事には、ちゃんとケジメをつけなきゃならないんだ、ポー」  そう言って、雀はかわら版屋を飛び出して行った。 「ケッ。一丁前《いっちょまえ》のことほざきやがる」  親方は舌打《したう》ちし、ポーは笑って肩《かた》をすくめた。 「留《とめ》さん、末《すえ》さん、今年もよろしくお願い申し上げます!」 「アイ。こっちィこそ」  彫師《ほりし》の留吉《とめきち》と刷《す》り師の末蔵《すえぞう》は、大きな顎《あご》でカクカクと笑った。  雀《すずめ》は版下を差し出し、兄弟《きょうだい》の前で手を合わせた。 「なんとしても、今日中に出したいんだ。夕方になってもかまわねぇけど、とにかく日のあるうちに!」  日が落ちると、道行く者がぐっと減《へ》る。そうでなくとも、雀は一刻《いっこく》でも早くけじめをつけたかった。  兄弟は、目玉が八つ並《なら》んだ顔を見合わせた。 「そいつぁ、遅《おそ》まきとうがらし」 「スッポンの居合《いあ》い抜《ぬ》きだぜ、雀」 「ダ、ダメかい……!?」  雀は、また頭から血の気が引く思いがした。 「なんてナ」  留吉が、ヒョイと肩《かた》をすくめた。 「ほかならぬ雀の頼《たの》みとあっちゃあ、どうでもやらざぁ、男がすたる。なぁ、末よ」 「アイアイ。兄《あに》サンの言う通りじゃ〜」  そう言うが早いか、留吉は八本の腕《うで》でザクザクと彫《ほ》り始めた。 「と、留さん〜、末さん〜、ありがと〜〜〜」  心からほっとした雀は、今度こそ泣けてきた。 「コレサ、あンだか。これっくれぇで泣くんじゃねぇよ」 「まだまだハツハツだのゥ、お前《め》ぇは」  兄弟の笑い声は優《やさ》しかった。 「俺《おれ》、出来上がりまでここで待ってていいかイ?」 「出来りゃあ、いつもみてぇに届《とど》けるぜ?」  雀は頭を振《ふ》った。 「今日は……待ってたいんだ」 「ごめんヨ」  留吉《とめきち》と末蔵《すえぞう》の元へやってきたのは、ポーだった。 「おウ」 「明けましておめでとう、留サン、末サン」 「おめでとうさん。今年もよろしく頼《たの》まあ、大首《おおくび》の」 「雀《すずめ》なら、そこでかしわ餅《もち》ヨ」  バリバリと仕事をしながら、留吉は腕の一本で部屋の隅《すみ》を指差した。掛《か》け布団《ぶとん》にくるまった雀がいた。 「やっぱり」  ポーは苦笑いした。 「かわら版《ばん》の仕上がりをここで待つって言い出してなぁ。しばらくそこで座《すわ》ってたが、急にコトッと寝《ね》ちまってヨ」 「徹夜《てつや》明けなんだ」 「そうかェ。道理《どうり》で顔色が冴《さ》えねぇと思ったワ」 「昨日は仕事をすっぽかして油を売っててネ。親方に鬼一口《おにひとくち》サ」 「そいつぁ、さぞかしでかい破鐘《われがね》が鳴ったろう」 「ああ、だから今日中に刷り上がるとわかってベソかいたんだな。ヘッヘ、かぁいいねぇ」 「この子は、年齢《とし》よりも子どもだからねぇ。この子の世界じゃ、それで普通《ふつう》だったんだろうけど」 「ナニサ。仕事さぼって親方に灸《きゅう》をすえられベソかくなんざぁ、どこのガキでもやってることヨ。普通だぜ」 「末サンの言う通りだよ、雀」  ポーは雀《すずめ》の頭を優《やさ》しく撫《な》でた。  その時、雀ががばりと起き上がった。 「ハッ!!」 「あ、起きた」 「ポー!? 俺《おれ》、寝てた??」 「大丈夫《だいじょうぶ》。一時《いっとき》ぐらいしかたってないよ」 「そうそう。刷り上がりはまだまだだぜぇ」  留吉《とめきち》と末蔵《すえぞう》の十六本の腕《うで》は、大車輪で仕事中だった。 「さあ、雀。かわら版《ばん》は留サンと末サンに任《まか》せて、何か食べに行こう」 「ん? うん」 「行ってきなぁ、雀」 「ケツに張《は》り付かれてちゃあ、据《す》わりが悪ィや」  二人《ふたり》は大笑いした。 「んん……じゃあ、ちょっくら行っつくらぁ」  目をこすりながら、雀はポーに連れられて近くの飯処《めしどころ》へ行った。 「大丈夫《だいじょうぶ》かい、雀?」 「うん。ちょっと寝《ね》たらスッキリした」  昼飯時の盛《さか》りがちょうど過《す》ぎた頃《ころ》。店内はすいていた。 「焼き魚と田楽《でんがく》、出し巻《ま》き卵《たまご》と……飯は大|盛《も》り。ソレと汁碗《しるわん》ね」  注文してから、ポーはヒゲをピンとはじいた。 「ここの汁碗は名物なんだよ」  出てきた汁碗には、具がみっちり入っていた。 「むわぁ〜、いい匂《にお》い! 何コレ? 野菜と……魚かな?」  一口食べて、雀はその美味《うま》さと食感に驚《おどろ》いた。 「うンめえ! ぷるっぷるしてる!! 何コレ?」 「鮟鱇《あんこう》サ」 「あんこう?? ……って……エート……あ、すっごいブッサイクな魚?」  ポーは笑った。 「顔はアレでソレだけども、美味くて栄養満点。精《せい》がつくんだよ。そのぷるっぷるしたとこは栄養の固まりサ」 「すンげぇよ! 美味《うめ》ぇよ、鮟鱇《あんこう》! この汁だけで飯がおかわりできるぜ!」  大盛り飯を三|杯《ばい》おかわりする雀《すずめ》を、ポーはうんうんと見ていた。  昼飯を腹一杯喰《はらいっぱいく》った後、黄粉《きなこ》たっぷりのあべかわ餅《もち》とお茶をお供《とも》に、雀は昨日のことをポーに話した。 「そうかい。そりゃあ、千刻《せんこく》の時間も一時《いっとき》だったろうねぇ」  ポーは、おしゃべりに夢中《むちゅう》の雀と雪消《ゆきげ》の様子を微笑《ほほえ》ましく思った。 「まったく面目《めんぼく》ねぇ」  雀は後ろ頭をガリガリ掻《か》いた。  ポーは、パイプの煙《けむり》をゆっくりと吐《は》いた。 「……雪消サンが好きかイ、雀?」 「…………」  雀はすぐには答えなかった。しかし、その瞳《ひとみ》は迷《まよ》っているようではなかった。 「人を好きになったことなんてない……。だから、これが好きという気持ちなのか、本当のところはわからねぇ。でも……違《ちが》う気がする」 「ほぅ?」  雀は、透明《とうめい》な青灰色《あおはいいろ》の冬空を見上げた。大きなエイのようなモノがゆっくりと飛んでいた。身体《からだ》の下に、小さなモノたちを従《したが》えて。 「雪消さんを見ていると……誰《だれ》かを思い出すような気がするんだ」 「元の世界の人?」  雀は、頷《うなず》いた。 「俺《おれ》にとって元の世界の記憶《きおく》ってサ……昨夜見た夢《ゆめ》を思い出すような感じなんだ。切れ切れで、あやふやで……。親の顔やワル仲間の顔、学校の先生の顔もハッキリしないんだ。ぼやけてたり後姿《うしろすがた》だったり……。俺《おれ》……それがおかしいってことに気がつかなかった。ハッキリ思い出せなくても、どうでも良かったし」 「……」  ポーは黙《だま》ってパイプを吹《ふ》かしていた。 「その中で、ハッキリと顔を思い出せる人が、何人かいる……。一人《ひとり》は、近所のおばさん」 「優《やさ》しくしてもらった人とか?」 「ううん。しゃべったこともない」  雀《すずめ》は肩《かた》をすくめた。 「でも、ここん家《ち》には可愛《かわい》い柴犬《しばいぬ》がいて、そいつがいつもすげぇ嬉《うれ》しそうにおばさんと散歩してたんだ。ぴょんぴょん跳《は》ねるみたいに歩いてんの。ああ、おばさんと散歩するのが嬉しいんだなぁ〜って、見てた。で、一度散歩中にすれ違ったことがあって、シバが寄《よ》ってきたんで、しゃがんで頭を撫《な》でてやった。その時見上げたら、おばさんはニコニコ笑ってた。その顔を……ハッキリ思い出すことができる」  雀は、遠い彼方《かなた》に流れ去った故郷《ふるさと》の情景《じょうけい》を、記憶《きおく》の中で見つめる。自分とは何の関《かか》わりもなく、それからも関わることのなかった人の笑顔《えがお》。その笑顔が、記憶に刻《きざ》み付けられている。特に美しいとか優《やさ》しい笑顔でもなかった。それでも、雀の心にしっかりとあるのだ。今も。 「その柴犬《しばいぬ》も雪消《ゆきげ》さんに似《に》てるけど、それじゃないゼ!?」 「ははは」 「放課後グラウンドで、一人《ひとり》でランニングしてた陸上部の奴《やつ》の横顔も覚えてる。カッコ良かった。あと、いつも公園のベンチに座《すわ》ってたじいさんとか……なんか、自分と直接関係のなかった人の顔ばっかり覚えてるンだよな」  紫煙《しえん》の向こうで、ポーは緑色の目を細めた。 「でも、雪消さんを見ていて思い出しそうな人を……思い出せない。誰《だれ》だったっけ? どこで会った? って、思い出そうとするんだけど、そうすればするほど……目しか思い浮《う》かんでこないんだ」 「目?」 「うん。雪消《ゆきげ》さんみたいな、ワンコみたいな真っ黒の目じゃないぜ、当然だけど。でも、すごく似《に》ている気がするんだ。コゥ……キラキラしているとことかが。ポーも言ってただろ、羽二重《はぶたえ》ずれしてるって。世間のことを何も知らない、赤ちゃんみたいな目だ」 「ふ〜ん」 「別に、それがすごく重要ってわけでもねぇんだけど……。なんか引っかかっててサ。中途半端《ちゅうとはんぱ》に思い出すと気持ち悪いじゃん」  雀《すずめ》は苦笑いしつつ、餅《もち》を頬張《ほおば》った。  昼飯と甘《あま》いものをたらふく喰《く》って、雀はすっかり元気を取り戻《もど》した。  そして、大江戸《おおえど》の町が晩《ばん》じる前に、留吉《とめきち》と末蔵《すえぞう》の兄弟は仕事を仕上げてみせた。 「ありがてぇ、留さん、末さん! 一生|恩《おん》に着ます!!」  できあがったかわら版《ばん》を前に、雀は柏手《かしわで》を打って二人《ふたり》を拝《おが》んだ。 「さすが、彫《ほ》り留《とめ》と刷り末《すえ》は大江戸《おおえど》一の侠《きゃん》だネ。もろ肌脱《はだぬ》いだからにゃあ、やり遂《と》げてこそ大江戸っ子だよ」 「留さんと末さんがいなきゃあ、俺《おれ》ぁ死んじまうとこだったゼ」  兄弟は大きな顎《あご》をカクカクさせた。 「そう上げてくンなんなぁ。頭がつかえらぁ」 「さあ、雀。急いでンだろう!? 日が沈《しず》むゼ」 「オット、そうだった! じゃあ、早速《さっそく》売ってくらあ!! 留さん、末さん、またなあ! ポーも、付き合ってくれてサンキューだぜ!」  特別|版《ばん》の大きな束を抱《かか》えて、雀は飛び出して行った。 「よくやってるゼ、あの子はヨ」  留吉は、仕事のあとの一服を美味《うま》そうに吹《ふ》かした。 「留《とめ》サン、末《すえ》サン、仕事を急がせてすまなかったね。お疲《つか》れさま」 「そう言うお前《め》ぇも、親方から様子を見て来いと言われて来たンだろう、ポー!?」  末蔵《すえぞう》はヒッヒと笑った。ポーは、ヒゲをピンと弾《はじ》いた。 「手前ェでやりこみ喰《く》らわしといて、大首《おおくび》も親バカよの」 「ありゃあ、コウよ。怒鳴《どな》れば雀《すずめ》が縮《ちぢ》み上がってくれるもンで嬉《うれ》しいのヨ。お前ぇやキュー太じゃあ、どんだけ破鐘《われがね》鳴らしたって、どこ吹く風だもの」 「違《ちげ》ェねえ〜」  三人は大笑いした。  そろそろ軒先《のきさき》に灯《あか》りが入ろうかという頃《ころ》。雀《すずめ》は大急ぎで辻《つじ》に立った。 「さぁさぁさぁ、上下|揃《そろ》って事明細《ことめいさい》だよ! 大首《おおくび》のかわら版屋新春かわら版第一号だ! 王子《おうじ》の千年|榎《えのき》の狐火《きつねび》をご覧《らん》になったお方はありや? 大晦日《おおみそか》の百鬼夜行《ひゃっきやこう》の目出度《めでた》い様子が、極彩色《ごくさいしょく》で描《か》かれているよ! 大江戸っ子なら、これを見て早速《さっそく》去年を振《ふ》り返ろうじゃあないか! これを肴《さかな》に今夜は一杯《いっぱい》やれるぜ。さあ、買った買った!」  雀の口上《こうじょう》に集まった大江戸《おおえど》っ子たちが、我《われ》も我もとかわら版を買ってゆく。 「これが千年|榎《えのき》の狐火《きつねび》か! 俺《おれ》ぁ、まだいっぺんも見たことがねぇんだ」 「綺麗《きれい》だねぇ!」 「こりゃあ、今年の晦日は王子に行かざぁなるめぇ!?」 「いりゅーじょんって……良《え》ェ響《ひび》きだなぁ」 「見ろよ、この百鬼夜行《ひゃっきやこう》の絵! 俺《おれ》が見たまンまだ」 「今にも動きだしそうじゃねぇか」  挿絵《さしえ》を見た者たちから、感嘆《かんたん》の声があがる。 「ホント、いつもキュー太の絵は、俺のイメージをちゃんと絵にしてくれる。ありがてぇよ」 「へへへ、そうそう。俺っちも鉋《かんな》に両の手合わせたぜ、雀。長《なげ》ェ間よっく働いてくれたものヨ。成仏《じょうぶつ》してくンなと、願わずにゃあいられねぇよなあ」  大工の三つ目|鬼《おに》は、三つの目玉に思わず涙《なみだ》を浮《う》かべた。 「お前《め》ぇのかわら版《ばん》は、まるで絵草紙を見ているようで楽しいぜ、雀《すずめ》。コウ、文字とか絵とかの感じがヨ。毎度感心すらあ」 「へへっ。ありがとヨ」 「全部売り切れやした、親方!」  大首《おおくび》の親方の前に売上金を差し出し、雀は再《ふたた》び三つ指をついた。  親方は、ぎろりと目を剥《む》いてから「うむ」と頷《うなず》いた。 「よし。今日は仕舞《しめ》ぇだ」  雀は、ほっとした。 「昨日はすいやせんでした!」  頭を下げたままでそう言う雀に、 「次はねぇと思え!」 と、親方は怒号《どごう》を降《ふ》らせた。 「ヘイ! 肝《きも》に銘《めい》じて!!」 「今日はさっさと寝《ね》やがれ!」  親方はそう言い捨《す》てて、壁《かべ》の奥《おく》へ引っ込《こ》んでいった。 「ほ〜〜〜……っ」  雀は、畳《たたみ》の上に大の字になった。 『お疲《つか》れさま、雀』  キュー太が、べろべろと紙を吐《は》いた。 「キュー太ぁああ! お前《め》ぇの絵はサイコーだよ! いつもありがとよ〜〜〜!!」  雀は、キュー太の酒樽《さかだる》のような身体《からだ》を抱《だ》きしめた。 「さあ、雀。親方に言われたろう。今日はさっさと帰って寝るんだよ。ほら、稲荷寿司《いなりずし》。長屋へ帰ってお食べな」  ポーは雀《すずめ》に包みを渡《わた》した。 「ありがとう、ポー」  雀はポーも抱きしめた。銀色の毛皮がこのうえもなく心地好《ここちよ》い。 「はぁ〜、このまンま、お前《め》ェに埋《う》もれて眠《ねむ》りてぇよ」 「バカ言ってないで帰るンだよ」  雀は襟首《えりくび》を掴《つか》まれ、かわら版屋からつまみ出された。 「雀」  ポーが、雀の顔を覗《のぞ》き込んで言った。 「君は失敗したけど、取り返せた。上等だヨ」 「…………うん」  雀は、晴れやかに笑って頷《うなず》いた。  大江戸《おおえど》の町は、もうすっかり夜だった。満天の星が、今にも降《ふ》ってきそうだった。 [#改ページ] [#挿絵(img/03_111.png)入る]   金十郎《きんじゅうろう》にあやまり行燈《あんどん》油差し  雀がまた雪消《ゆきげ》を訪《たず》ねたのは、それから二日後の仕事帰りだった。  雀の失敗談を、雪消は笑って聞いた。 「それは、わっしにも責任《せきにん》があるの、雀。すまぬことをした」  雀は首をぶんぶんと振《ふ》った。 「とんでもねえ! 俺《おれ》が悪かったんだ。親方に叱《しか》られて当然さ」 「しかし、おまィにもっと話をしてくれとねだったのは、わっしだからな」 「調子に乗った俺が悪いンだ。気にしねぇでくれ、雪消さん。ちゃんと仕事をやるって、俺《おれ》が誓《ちか》いを立てたンだから、俺がしゃんとしなきゃならねぇんだ。それがけじめってやつなんだ」  そう言う雀《すずめ》を見て、雪消《ゆきげ》はくすりと小さく笑った。 「可愛《かわい》いな、雀」  雪消は、雀をまっすぐに見た。宝石《ほうせき》のような黒い瞳《ひとみ》に見据《みす》えられ、雀の胸《むね》は思わずドキリと跳《は》ねた。その透明《とうめい》な眼差《まなざ》しに、雀はまた何かを思い出しそうになった。  格子越《こうしご》しに、雪消は雀に顔を近づけてきた。闇《やみ》のように黒い、でもその中にキラキラとした光を閉《と》じ込《こ》めた夜空のような瞳に、雀は吸《す》い込まれそうになる。 「おまィを見ていると…………コゥ」  吐息《といき》がかかりそうな近くで、雪消は言った。 「コウ、ぱくりと一呑《ひとの》みにしたくなる」  雀は、「えっ??」とずっこけた。別に、何を期待していたわけでもないが。 「はははは」 と、雪消は大らかに笑った。  それから「ふふふ」と軽く笑《え》んだ時の目つきに、雀はぞくっと、襟《えり》の毛が立つ思いがした。雪消の眼差《まなざ》しの奥《おく》に、蘭秋太夫《らんしゅうたゆう》に感じたような妖艶《ようえん》な色気があった。 「この人は……若《わか》くて羽二重《はぶたえ》ずれして、ホワンとして見えるけど……大人《おとな》なんだ」  その瞬間《しゅんかん》。雀はハッと胸《むね》を衝《つ》かれた。 「あ……あ、あ! 思い出した……! そうだ……そうだ、あの子だ!!」 「どうしたェ?」 「雪消さん! 俺、雪消さんを見てると思い出す人がいてさ」 「ほぅ」  雪消は、煙《けむり》をぽかりと吐《は》いた。 「ずっと、誰《だれ》だったか思い出せなかったんだけど、今わかった……」  目だけしか思い出せなかった。  それは、目だけがあまりにも美しかったから。 「そうだ……暗い、灰色《はいいろ》の、悪い夢みたいな景色《けしき》の中で、その子の目だけが光が射《さ》したみたいに綺麗《きれい》だった」  少女だった。  年齢《ねんれい》はわからない。だがおそらく、その時の雀《すずめ》と同じぐらい。まだ、たった十四、五。  その子は、雀のワル仲間のもとにいた。雀がその子を見たのは、その時だけ。それもチラリと見ただけだった。  両頬《りょうほほ》を腫《は》らし、鼻血をたらし、口許《くちもと》も血で汚《よご》れていた。長い髪《かみ》は乱《みだ》れ、服もくしゃくしゃの皺《しわ》だらけだった。  何が少女にあったのか、一目でわかった。雀たちの「兄貴分《あにきぶん》」の一人《ひとり》の「女」になったのだと、仲間がニヤニヤといやらしく笑いながら話していた。  こんなことは、よくあることだった。誘蛾灯《ゆうがとう》に誘《さそ》われてくるような無防備《むぼうび》な女は、火に焼かれても当然だと、雀は思っていた。それまでにも、何人もの似《に》たような女たちを雀は見ていた。  行くあてもなく夜の街を彷徨《さまよ》い、行きずりの男にたかって暮《く》らすような女。大人《おとな》たちを信用せず、同じような孤独《こどく》な仲間にすがりつき、お互《たが》いの傷《きず》を舐《な》め合いたい女。金やクスリのためには、何でもするような女。 「そんな女たちを食い物にするのが、俺《おれ》たちの兄貴分たちだったから……」  その少女も、そんな女どもの一人《ひとり》なのだろうと、雀は思った。実際《じっさい》は、どうなのかはわからない。その子がどうやってここへ来て、これからどうなるのか、雀は興味《きょうみ》がなかった。  ただ、その子の目をみてハッとした。  傷つき、汚《よご》れきった少女の、瞳《ひとみ》だけは宝石《ほうせき》のように透《す》き通《とお》って見えた。そこには「意思」があり、希望すらあるように見えた。雀を睨《にら》んできたその目つきは獣《けもの》のようだったが、それでも美しかった。  こんなゴミ溜《た》めのような場所で、腐臭《ふしゅう》まみれの人間ばかりの中で、普通《ふつう》の世界から引き摺《ず》り下ろされ、同じようにゴミと腐臭にまみれてしまっているのに、少女の瞳は一片《いっぺん》の穢《けが》れもないようだった。雀は、その美しさに釘付《くぎづ》けになった。 「そのゴミ溜《た》めにいるのは、俺《おれ》も含《ふく》めてみんな濁《にご》った目をした奴《やつ》らばっかりだった。男も女も。大人もガキも。でも、その子は違《ちが》った。あんな場所で、どうしてあんな綺麗《きれい》な目をしていられるんだろうって、すごく不思議《ふしぎ》だった。その時は、綺麗だとは思わなかったけど。綺麗って感じる感覚すら、俺にはなかったから」  雀《すずめ》は頭を掻《か》いた。 「ただ……不思議だった」  その後、その少女がどうなったか、雀は知らない。もう二度と見かけることはなかった。 「……ふぅん……」  雪消《ゆきげ》は、煙管《きせる》を長々と吹《ふ》かした。 「覚悟《かくご》があったのだろうねぇ」 「覚悟……」 「その子は、自分の来《こ》し方|行《ゆ》く末《すえ》を悟《さと》り、腹《はら》を括《くく》ったのだろうサ。まだ子どもでそこまでできるとなると、それまでにもずいぶんつらい思いをしてきたのかも知れないねぇ」 「……」 「自分の生きる世界はここしかないのだと、それがどんな世界であろうともここしかないのだと。ならば、自分はここで生きようと。そう覚悟を決めたのだろうサ。その子は、己《おのれ》を悟《さと》り、己を受け入れ……そして、大人《おとな》になったのだよ」  少女と雪消が、雀の中で重なって見えた。 「こういう者は、壊《こわ》れない芯《しん》を持っている。信念というか、誇《ほこ》りというか、心は純《じゅん》なままなのサ。それが瞳《ひとみ》に宿るのだろうねぇ」  雀は深く頷《うなず》いた。 「雪消さんの目が……とても似《に》てるんだ。その子に……」  雪消は、煙管を灰吹《はいふ》きの縁《ふち》でコンと打った。 「おまィの勘働《かんばたら》きがいいのは、生まれつきかねぇ……。その子とわっしは、似て非《ひ》なるものだが……」  雀と雪消は見つめ合った。  穢《けが》れない何かを宿した、黒いつぶらな闇《やみ》。雀《すずめ》はその間に、また吸《す》い込《こ》まれそうになる。 「もゥ知ってると思うが、わっしは白鬼《しろおに》だ」 「うん」  雪消《ゆきげ》は、ここで「ふぅ」と一息ついた。 「わっしがまだ小さかった時、近所の川小僧《かわこぞう》の子とよく遊んだ。子どもは他にもおったが、一番よく遊んだのがその子だ。わっしはその子が好きだった……と思う」 「うん」 「で。ある日、わっしはその子を喰《く》ってしまったのサ」 「……」  あっさりとそう言われて、雀は思わず唾《つば》を呑《の》み込んだ。 「その時になって、おっ父《と》さんたちはやっと、わっしが先祖返《せんぞがえ》りだとわかったのよ。おっ父さんは、慌《あわ》てて封印師《ふういんし》のもとへ走った。それ以来、わっしはこういう場所にいるというわけサ。川小僧の子は、まったく気《き》の毒《どく》だった」  雪消は、なんだか他人事《ひとごと》のように言った。 「白鬼の、しかも子どもがやらかしたことだから、誰《だれ》もお咎《とが》めは受けなんだ。川小僧の親も、白鬼では仕方ないと言うばかりだったらしいの」 「ゆ、雪消さんは……どう思ったんだい?」 「なんとも思わん。喰《く》いたかったから喰った。それだけサ」  雪消は、薄《う》っすらと笑った。  雀《すずめ》は、内心|冷《ひ》や汗《あせ》がたれた。 (化け物がいる) と、思った。 (だけど……なんて綺麗《きれい》な化け物だろう) と、思った。  白鬼は純粋《じゅんすい》な存在《そんざい》だと、桜丸《さくらまる》が言っていた。力そのもの。嵐《あらし》のようなものだと。雀は、その意味がわかったような気がした。 「理屈《りくつ》も何もない……。ただ純粋《じゅんすい》にあるがまま……」  恐《おそ》ろしいが、美しかった。不純物《ふじゅんぶつ》が一切紛《いっさいまぎ》れていない、透明《とうめい》で冷たい宝石《ほうせき》のようだった。  そして雀《すずめ》は気づいた。  これは、当たり前のようにそこに居《い》るモノたちと同じだと。  そこここの暗がりにじっと佇《たたず》み、時折こちらを見ているモノたち。向こうの路地をゆるりと横切る影《かげ》。障子《しょうじ》や襖《ふすま》の間から覗《のぞ》く眼差《まなざ》し。天井《てんじょう》で息を潜《ひそ》めている塊《かたまり》。何かしら目的を持っているわけもなく、ただそこに居るだけ。彼らは、あるがままにそこにあるだけ。  だが、雀には決して踏《ふ》み込《こ》めない存在《そんざい》なのだ。  決して覗《のぞ》いてはいけない深淵《しんえん》。  雀と何も変わらないように見える雪消《ゆきげ》。だが雀と雪消の間が牢《ろう》で隔《へだ》たっているように、越《こ》えてはいけない境界線《きょうかいせん》がある。  境界線の向こうには…… (大江戸《おおえど》の本当の姿《すがた》がある……?)  西側の窓《まど》の向こうに、暮《く》れなずむ大江戸の空が見える。血を流したような赤い空に、大江戸|城《じょう》が真っ黒な影となって浮《う》かび上がっていた。 「おまィには怖《こわ》いだろう、雀」  雀は、素直《すなお》に頷《うなず》いた。 「でも……雪消さんは、とても綺麗《きれい》だ」 「ふふふ」 「桜丸《さくらまる》が、白鬼《しろおに》は嵐《あらし》のようだって言ってた。雪消さんは、春の嵐だネ。花を散らす風も雷《かみなり》も桜《さくら》色で、綺麗で、色っぽくて、舞《ま》い散らした花びらを飾《かざ》ってるような……。そんな感じがする」  雪消は、黒い瞳《ひとみ》をくりっとさせた。 「これはまた! ずいぶん艶《つや》のあることを言うものだのゥ、雀よ。かわら版《ばん》だけじゃなく、恋《こい》物語も書けるのではないかいェ!?」  大笑いされて、雀は盛大《せいだい》に頭を掻《か》いた。 「他者を喰《く》うことはなんとも思わんが、それがご法度《はっと》ということもわかる。だから、わっしはこの部屋《へや》から出られずともかまわん。ここは小さい世界だが、おっ父《と》さんがわっしのために用意してくれた場所だからサ。わっしに、生きることを許《ゆる》してくれている世界サ。わっしは、ここで生きていくのよ」 「……うん」  己《おのれ》を悟《さと》り、己を受け入れ、腹《はら》を括《くく》って生きる。だから汚《よご》れない、穢《けが》れない芯《しん》を心の中に持っている。雪消《ゆきげ》もあの少女も、こういう美しさと強さに自分は惹《ひ》かれたのだと、雀は思った。  また雀《すずめ》は、雪消をここに閉《と》じ込《こ》めておくことが、菊五郎《きくごろう》の親の愛なのだとも学んだ。そういう愛もあるのだと学んだ。  それからも、雀は折を見て雪消のもとへ通って行った。  雀の元の世界のこと、この世界のこと、饅頭《まんじゅう》など喰いながら、とりとめもなく二人《ふたり》はしゃべった。豊《ゆた》かな時間だった。 「この頃《ごろ》ぁ、楽しそうだなぁ、雀《すずめ》よ」  小さな池のほとりの冬の陽《ひ》だまり。のんびりと釣《つ》りをしながら、鬼火《おにび》の旦那《だんな》は面白《おもしろ》そうに言った。  さっきからピクリとも動かない竿《さお》を睨《にら》んだまま、雀は冷ややかに返した。 「よく言われるンだけどサア、旦那。恋《こい》してるからってわけじゃねぇからな?」 「ほぅ?」 「もゥ、桜丸《さくらまる》とかうさ屋のおやっさんとかさァ、おやじどもはどうしても、俺《おれ》が恋してるってぇことにしたいらしいぜ。どーヨ、コレ」 「ハハハハ」 「大江戸《おおえど》っ子は、惚《ほ》れたハレたが好きだなあ」 「違《ちげ》ぇねェ」 「俺《おれ》と雪消《ゆきげ》さんは物書き同士の付き合いで、色恋じゃねぇっつーの。第一《だいいち》、惚《ほ》れてハレても格子越《こうしご》しじゃ何もできねぇじゃん。いくら好きな女でも、喰《く》われたかねぇよ」 「いいや。あの結界《けっかい》の中なら、白鬼《しろおに》も普通《ふつう》の者ヨ」  旦那《だんな》は煙管《きせる》に火を入れた。 「えっ、じゃあ……」 「お前《め》ェが座敷牢《ざしきろう》の中へ入《へえ》れば、充分《じゅうぶん》ナンだってできるってわけサ」  旦那は「ひひひ」と笑いながら煙《けむり》を吐《は》いた。 「そうなんだ……あ、いや別に、俺がナニかしてぇわけじゃねえぜ。そイじゃぁ、雪消さんも結婚《けっこん》とかできるっていうことじゃん」 「そうだな。ちょイと不自由だが……」 「そぉかぁ、良かった。俺、雪消さんって、ずっとずっとあのまンまなのかなぁって、気の毒に思ってたんだ。あそこで、一人《ひとり》でさぁ……」 と、雀《すずめ》がそんな話をしていた時だった。  各所の初|縁日《えんにち》も大方終わった頃《ころ》だった。 「縁談《えんだん》!?」 「おうサ。雪消《ゆきげ》にな。しかも相手は上級|武士《ぶし》らしいゼ」  かわら版《ばん》屋の前座敷《まえざしき》。読売《よみうり》を読んだり碁《ご》を打ったりしているヒマ人どもに混《ま》じり、雀とポーは桜丸《さくらまる》の話を聞いた。 「上級武士!? そりゃスゴイ。雪消サン、玉の輿《こし》だねぇ」  ポーは、緑色の目を大きく見開いた。 「……ってことは、身分よりも雪消さんの『力』を優先《ゆうせん》させたってことなんだな!?」 と、雀が言うと、ポーは頷《うなず》いた。 「そういうコト。白鬼《しろおに》の純血《じゅんけつ》に含《ふく》まれる力を欲《ほっ》しての求婚《きゅうこん》ってことだろうネ。……でも、それにしても上級武士が役者の子を娶《めと》りに来るなんて……。上級武士なら、力筋《ちからすじ》も身分もあるお相手が他にもいるんじゃナイ!?」 「さあそこが、あや獅子《しし》に牡丹《ぼたん》なとこサ」 「何? なんかヘンなことでもあるのかイ?」  雀《すずめ》は、身を乗り出した。 「雪消《ゆきげ》に求婚してきた相手ってぇのが、保坂《ほさか》家の三男|坊《ぼう》でな」 「旗本の左太郎《さたろう》!? ソレって、玉の輿《こし》ってことになるのかネ? 微妙《びみょう》〜」 「エ〜ト……確《たし》か旗本ってぇのは、家を継《つ》げればいいけど、それ以外は養子に行くかしないと、どうしようもないんだったよな!?」 「そ。ただの穀潰《ごくつぶ》しサ」  ポーは、パイプの煙《けむり》を吐《は》いた。 「しかも、なまじな光手合《ひかりてあ》いにロクな奴《やつ》はいなくてねぇ。ヒマと金があるもンだから、深川《ふかがわ》あたりで呑気《のんき》にカブいてるうえに嵩《かさ》にかかった横っ倒《たお》しで、身分はあってもお里が安い連中サ」 「保坂《ほさか》の家は、先ごろ現当主の長男が、跡取《あとと》りを残さず死んじまってな。次男も身体《からだ》が弱く、先が長くなさそうだってんで、がぜん三男がハリキっちまったって話ヨ」 「ンン? じゃあ、縁談《えんだん》って保坂の家が決めたことじゃなくて、その三男の独断《どくだん》かイ?」 「どうもそうのようだな」 「なぁんだ。そういうことならこの縁談、まとまりそうもないね」 「やっぱり、身分の差?」  雀はポーに問うた。 「うん。身分よりも力筋《ちからすじ》を優先《ゆうせん》させるといってもね。それは特殊《とくしゅ》な場合なのサ。だって、身分の高い者は力も強いんだもの。わざわざ下の身分の者を娶《めと》らなくてもネ、身分の高い者|同士《どうし》で結婚《けっこん》すればいいだけの話。やっぱり身分の高い者は、力も欲《ほ》しいけど身分も大事なわけ。特に半端《はんぱ》に上の方の身分の|武士《ぶし》に限《かぎ》って、さらに上を目指したがるのはしょうがないよネ。役者の子と婚姻《こんいん》なんて、保坂の家が許《ゆる》すはずないよ」  ポーはフンと鼻を鳴らした。 「三男にしてみりゃあ、さしずめ雪消《ゆきげ》に力の強い子を産ませて、そいつを踏《ふ》み台にさらに上へのし上がろうって算段《さんだん》なんだろうが」  桜丸《さくらまる》の言葉に、雀《すずめ》はむっとした。 「……それって、なんかムカツク」 「でも、たとえ雪消サンが生んだって、その子が力の強い子だって限らないんだろう? しょせん、偶然《ぐうぜん》生まれた力だもの」 「雪消のことをなんでその半可通《はんかつう》が知ってたのかがわからねぇ。菊五郎《きくごろう》の娘《むすめ》が純血《じゅんけつ》の白鬼《しろおに》だと知ってる奴《やつ》ぁ、限られてるはずだ」 「保坂の三男って、栄之進《えいのしん》だろ」 と、話に入ってきたのは前座敷《まえざしき》の常連《じょうれん》、ろくろ首の駒吉《こまきち》。 「知ってるのかィ、駒吉っつぁん?」 「深川《ふかがわ》でぶぅぶぅやってる、つっかけものさネ。家がでけぇからって、エエ齢《とし》して独《ひと》り身《み》で遊び歩きゃあがって。同じような旗本の左太郎《さたろう》ども引き連れてヨ。保坂の家はなるほど身分は高ェし、古い血の家柄《いえがら》かも知れねぇが、その血を継《つ》いでるからってぇ、出来がエエとは限《かぎ》らねぇ。栄之進《えいのしん》はそのダメな見本みてぇな野郎《やろう》ヨ」 「目に浮《う》かぶ」 「だが、さすがの名家らしいとこはだな、こンな出来損《できそこ》ないにも、ちゃあんと�影者《かげもの》�が付いとるとこヨ」 「影者! ……なるほどなぁ」  桜丸《さくらまる》もポーも、ポンと膝《ひざ》を打った。 「影者って何だ?」 「間者《かんじゃ》……。ん〜、雀《すずめ》には、スパイって言った方がわかるかな?」 「スパイ!」 「その者に付いて、いろんな情報《じょうほう》を集めたり、敵《てき》から守ったりする専門職《せんもんしょく》の者サ。大きな家になると、代々その家に仕えている影者の一族っていうのがあったりしてね。その家の重要人物|一人《ひとり》一人に付いてたりするわけ」  雀《すずめ》は、感心した。 「忍者《にんじゃ》……。忍者だ」 「忍者? お庭番のことかい? お庭番は、大江戸城専属《おおえどじょうせんぞく》の影者集団のことを言うんだよ。お庭守とか、忍び影とか言われたりするけど」 「この影者《かげもの》が、栄之進《えいのしん》ぼっちゃんにいろいろと情報を運んできたり、マズイことを揉《も》み消したりしてるってぇカラクリさネ」  駒吉《こまきち》の話に、雀はまたむっとした。 「……それって、なんかムカツク」  雀の元いた世界にも、似《に》たような奴《やつ》がいた。大会社社長のバカ息子《むすこ》で、金と権力《けんりょく》を振《ふ》り回し、弱い者を弄《もてあそ》ぶのが大好きな下司《げす》だった。 「あいつも……ボディガードを連れていた。いつも……」  そのボディガードが、バカ息子の手足となって蠢《うごめ》いていた。時には金で相手の頬《ほお》を叩《たた》き、時には暴力《ぼうりょく》で黙《だま》らせ、殺しも平然とやると噂《うわさ》を聞いた。 「そんな奴《やつ》が……雪消《ゆきげ》さんを狙《ねら》っている」  雀は、ざわざわと胸騒《むなさわ》ぎがした。  心配でいてもたってもいられぬ雀は、その日仕事がひけるが早いか、ポーと桜丸《さくらまる》を引っ張《ぱ》って日吉座《ひよしざ》に駆《か》けつけた。 「雪消さんに縁談《えんだん》があるってホントなのかイ、菊五郎《きくごろう》さん!?」  控《ひか》えの間で、雀は菊五郎に詰《つ》め寄《よ》った。 「お話になりゃあせん」  菊五郎は、憮然《ぶぜん》としてため息をついた。 「保坂《ほさか》様は、最初ブラリと現《あらわ》れて、『オウ、ここに力の強い鬼娘《おにむすめ》がいるらしいな。結婚《けっこん》してやるから、そいつを差し出せ』とおっしゃった。おまけにずいぶんと酒が入ってらっしゃるご様子。呆《あき》れやしたヨ。丁重《ていちょう》にお帰り願いやした」  聞きしにまさる無頼《ぶらい》ぶり。雀は、他人事《ひとごと》ながら頭が痛《いた》くなった。 「サ、サイテー……」 「いくらなんでも猫《ねこ》の子じゃあるめぇし。娘《むすめ》を『差し出せ』たぁ、結婚《けっこん》が聞いて呆《あき》れる。光栄なお申し出とはいえ、とても話をする気にゃあ、なれやせんでした」 「当然だネ。人をバカにするにも程《ほど》があるよ」  ポーも肩《かた》をすくめた。 「次にいらっしゃったのは保坂家のご使者でござんしたが、それでもご使者の『直参《じきさん》旗本が囲《かこ》ってやろうと言うのだ、ひれ伏《ふ》して承諾《しょうだく》せよ』の言い様はあんまりでござんす」 「最初《はな》っから『囲ってやる』かよ!?」  桜丸《さくらまる》は呆れた。 「へぇ。『いくら力のある者でも、役者の子を正室に迎《むか》えるわけにはいかぬだろう』と」 「ははぁ、やっぱりな。保坂の家としてはそうだわなぁ」 「栄之進《えいのしん》様が結婚とおっしゃったのは、娘に対する心配りだと」 「むく犬の尻尾《しっぽ》だねぇ」 「恐《おそ》れ入谷《いりや》の鬼子母神《きしもじん》」 「栄之進《えいのしん》様が、娘の力を欲《ほっ》して下さるのは光栄ではござんすが、娘が力の強い子を産めるかどうかはわかりやせん。そればかりか、へたをするとまた娘と同じ子ができる恐れがある。純血《じゅんけつ》は純血を生むと言われているんでござんすよ。そうなると、母子ともども一生|牢《ろう》の中だ。娘はそれは望んでおりやせん。あたしもです」  菊五郎《きくごろう》が「親の顔」でそう言った。 「それをご使者は……望まぬ子が生まれた場合は、それまでのこととおっしゃった。それぁ、いったいどういう意味でござんすかと、問う気にもなれやせんでしたよ」 「ひっでぇー! 何ソレ??」 「ご使者は、『支度金《したくきん》として充分《じゅうぶん》金を支払《しはら》い、娘も丁重《ていちょう》に扱《あつか》うと約束する。何が不満か』とおっせぇしたが、生憎《あいにく》こちとら、金には不自由しちゃあござんせん。娘も一人前《いちにんまえ》の職人《しょくにん》として、りっぱに稼《かせ》ぐ身でありますれば、むざむざ『囲《かこ》い者』にさせる意味はござんせん。そうキッパリと申し上げやした」 「菊五郎《きくごろう》さん、カッコイ!!」 「すると、ご使者はあっさりと引き上げやしてね」  ポーは頷《うなず》いた。 「保坂《ほさか》の家としては、どうしても雪消《ゆきげ》さんが欲しいわけじゃないからね」 「へぇ。しょせんは、役者の子。お旗本から見りゃあ、下賎《げせん》な身分でござんす」  菊五郎は皮肉たっぷりに言った。 「もとより、栄之進《えいのしん》様が娘《むすめ》に目をつけなすったのは面白《おもしろ》半分、興味《きょうみ》半分。半可通《いきちょん》の気まぐれに付き合う気など、サラサラござんせんよ」  菊五郎は、フンッと鼻息を荒《あら》くした。 「おみそれ。侠《きゃん》だねぇ!」 「千両|湯島《ゆしま》!!」  その時、廊下《ろうか》でドカドカと騒《さわ》がしい音がした。 「なんだ?」 「菊五郎!!」  ぬおっと戸口をくぐって来たのは、ぎょろ目にブタ鼻、口には牙《きば》の生えた大男だった。しかも目元には真《ま》っ赤《か》な目張《めば》り、耳には金の輪っかをいくつも付け、結《ゆ》い上げた髪《かみ》には女物の簪《かんざし》を差している。その妙《みょう》ちきりんな迫力《はくりょく》に、雀《すずめ》は仰天《ぎょうてん》した。 「ブタ? いや、猪男《いのししおとこ》か!?」 「これはまた……。お世辞にも粋《いき》とは言えない傾《かぶ》き方だヨ」  ポーは眉《まゆ》をひそめた。 「御用《ごよう》はもウ、お済《す》みでござんしょう、栄之進《えいのしん》様」 「こいつが栄之進!?」  叫《さけ》んだ雀を、ポーが小突《こづ》いた。 「…様っ」  栄之進は、雀にかまわず菊五郎に怒鳴《どな》った。 「己《おのれ》は、保坂《ほさか》の家がわざわざ使者を立ててやったというに、よくも断《ことわ》りおったな! どういうつもりだ」 「どうもこうもござんせん。ご使者に申し上げた通りでござんすよ。わざわざ囲《かこ》い者にしていただかずとも、雪消《ゆきげ》は喰《く》ってゆけますゆえ」 「生意気をぬかすな!!」  猪男《いのししおとこ》は、どおんと床《ゆか》を踏《ふ》み鳴らした。 「ありがたくも、直参《じきさん》旗本の保坂家へ入れてやろうとゆうておるのに、伏《ふ》して差し出すのが道理であろう! それを、わざわざ囲い者にしていただかずとも、だと!? 今だとて充分《じゅうぶん》囲い者[#「囲い者」に傍点]であろうが!」  雀は、カッと頭に血が上った。思わず立ち上がりそうになったのを、ポーが止めた。 「保坂家へ来れば、儂《わし》の子を生むという光栄に浴せるばかりか、生まれた子の出来が良からば、さらに高い地位を得ることもあろう。かような場所で、芝居《しばい》なぞ書いて一生を過《す》ごすのと、どちらが良いか考えずともわかろうが!!」 「おっしゃる通りで」  菊五郎《きくごろう》は頭を下げた。 「雪消にとっちゃあ、かような場所で、芝居なぞ書いて一生を過《す》ごすのが良いと存《ぞん》じます」  栄之進《えいのしん》の身体中《からだじゅう》の毛が逆立《さかだ》つのがわかった。雀《すずめ》もポーも冷や汗《あせ》がたれた。 (侠仕立《きゃんじた》ては大そう胸《むね》がすくけど、この始末どうつけるつもりだイ、菊五郎サン?)  ポーはハラハラしていた。 「貴様《きさま》ぁ〜!」  栄之進が刀に手をかけたその時、 「イヤさコレは、金比羅《こんぴら》様の羽団扇《はうちわ》つかい。古《いにしえ》の名家の仕立てとも思えねエ。お座《ざ》が醒《さ》めやすゼ」  そう言ったのは、桜丸《さくらまる》。左の袖《そで》を肩《かた》まで捲《ま》くり上げている。そこに見える入《い》れ墨《ずみ》に、栄之進はウッと息を呑《の》んだ。 「横を言って話をしこじらかしたうえ、ピカピカ丸を抜《ぬ》いたんじゃあ、保坂《ほさか》の名がすたるってもンだ。あンたも傾《かぶ》きもんなら、そんな野暮《やぼ》はよしなせえ」  魔人《まじん》に睨《にら》み据《す》えられ、さすがの猪男《いのししおとこ》も顔を引き攣《つ》らせた。 「ム、ム、ム……!」 「栄之進《えいのしん》様」  菊五郎《きくごろう》が三つ指をついた。 「栄之進様は、雪消《ゆきげ》がどういう状態《じょうたい》か、もうご存《ぞん》じでござんしょう。では、雪消があの部屋《へや》から……いや、あの結界《けっかい》から出られぬのもご承知《しょうち》でござんすね。結界の外では……、結界を出たとたんに、雪消はあなた様の手に負えぬモノになってしまいやす。誰《だれ》の手にも負えぬのでござんすよ。だからどう転んでも、誰《だれ》の元へも、雪消はやれぬのでござんす。それとも、栄之進様|御自《おんみずか》ら、この芝居《しばい》小屋へ通って来られますか? そんなことはできますまい? では、どうかわかってやっておくんなさい」 「…………っ!」  栄之進は、しばし菊五郎と睨《にら》み合った。雀《すずめ》もポーも、息をつめて見守った。  やがて栄之進は、チッと大きく舌打《したう》ちするとその場を離《はな》れ、戸口でもう一度菊五郎を睨んでから、出て行った。 「は〜〜〜っ……!」  雀は、ドッと汗《あせ》が出た。 「そうか。これが菊五郎サンの�切り札�だったんだネ」  ポーはハンチング帽《ぼう》で自分を扇《あお》いだ。菊五郎は頭を掻《か》いた。 「栄之進様はきっと、たとえ結界《けっかい》で封《ふう》じられている者だとて、保坂《ほさか》の血でなんとかなると軽くお考えだったんでござんしょうよ。だから、そうではないとね。そもそも出られぬ[#「そもそも出られぬ」に傍点]のだと。そうわかれば、腐《くさ》っても上級|武士《ぶし》、芝居小屋へ通《かよ》い婚《こん》などするはずもありゃぁしませんよ。役者の子にそこまでする必要はなしと、これで納得《なっとく》なさるでしょう」 「でも、あいつが刀に手をかけた時は、どうしようかと思ったよ〜。桜丸《さくらまる》を連れてきといて良かった〜。ありがとよ、桜丸〜!」  雀《すずめ》は桜丸《さくらまる》に抱《だ》きついた。桜丸は、雀の頭をぽんぽんと叩《たた》いた。 「ほンに助かりやした、桜丸サン。怒《いか》りにまかせて斬《き》られるところでござんしたよ」 「半可通《はんかつう》に侠《いな》せがわかるわけもなし。綱渡《つなわた》りだったな、菊五郎《きくごろう》」  桜丸は苦笑いした。 「皆《みな》サン、ご無事でござんしたか?」  蘭秋太夫《らんしゅうたゆう》が、青い顔を見せた。 「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、太夫。モウ、話はついたから」  蘭秋は、へなへなと座《すわ》り込んだ。 「エエもウ。あんなてんこちもない無茶助《むちゃすけ》のももんがあの馬鹿猪《ばかいのしし》のとこへ雪消《ゆきげ》サンが行くなんて、天地がひっくり返ったってありゃしませんよ!」 と、蘭秋は泣きそうな顔で言った。 「コレサ、太夫。どこで誰《だれ》が聞いてるとも限《かぎ》らねぇ」 「……何かあったのかイ、太夫《たゆう》は?」  ポーが菊五郎に訊《き》いた。 「最初に栄之進《えいのしん》様が来られた際《さい》、酔《よ》ってらしたと申し上げたでしょう?」 「うん」 「太夫に抱《だ》きつきなすってねぇ」  菊五郎はため息をついた。 「ま、ここにゃあ男ばかり[#「男ばかり」に傍点]なんで申し上げやすが、止めようとする藤十郎《とうじゅうろう》を突き飛ばして、嫌《いや》がる太夫の身体《からだ》をさんざ弄《いじく》ってから放り出してね。ああ、やっぱり男はイヤだイヤだと、コウでござんすよ。楽しげに笑いながら[#「楽しげに笑いながら」に傍点]ね。男だと知らねぇはずもねぇのにネ」 「……やれやれ———」  皆《みな》、ため息をついた。蘭秋《らんしゅう》の目は吊《つ》り上がっていた。 「俺《おれ》さぁ、この世界って俺の元いた世界と違《ちが》って、身分の差はあっても、大した差別も偏見《へんけん》もない平和なとこだと思ってたよ。あんな栄之進みてぇな、絵に描《か》いたようなバカ侍《ざむらい》が、絵に描いたような無茶《むちゃ》なことをやるなんて……。ちょっとショックだなあ」  格子《こうし》をはさんで雪消《ゆきげ》と向き合い、雀《すずめ》はため息をついた。 「ふふん」  煙管《きせる》を吹《ふ》かしながら、雪消は薄《うす》く笑っていた。 「なんの憂《うれ》いもない世界など、どこにもありはしないのだヨ、雀。強い者と弱い者がいる社会では、そこがいかに安定した世界であろうとも、必ずなんらかの不条理《ふじょうり》はあるものサ。小さな虫の世界だとて、弱い者はただ黙《だま》って強い者に喰《く》われるのだから」 「ん〜……」 「また、なんの憂いもない世界など……。果たしてそこに居《い》て楽しいのだろうかと、わっしは思うヨ」  雪消は、輪っかの煙《けむり》をぽかりぽかりと吐いた。 「わっしたちには、苦しみも悲しみも、喜びと同じくらい大事な�生きる糧《かて》�なのサ」  冷たく美しい瞳《ひとみ》の闇《やみ》の中で、星が瞬《またた》いている。 「でも俺《おれ》は、俺の好きな人たちには幸せになってもらいてぇよ」 「もちろんだとも」  雪消は優《やさ》しく笑った。 「だから、みんな努力するのサ。おっ父《と》さんが、わっしを守るために身体《からだ》を張《は》ってくれたようにな。愛も憎しみも、喜びも悲しみも、みんな背中《せなか》合わせなのだヨ。いつもいつもその片方《かたほう》だけというのでは、ダメなのサ」 「あ……」  雀の心の中で、何かがぱちんと弾《はじ》けた。 「そうか———……」  雀は頷《うなず》いた。雪消も頷いた。  雀が、この世界で「まっとうに生きたい」と願ったのは、元の世界での生き方の裏返《うらがえ》しにほかならない。この大江戸《おおえど》で、皆に囲まれて幸せに暮《く》らしている雀の背中に、元の世界の自分がいるのだと、雀《すずめ》はしみじみと思った。生まれ育った世界がどれほど時間の彼方《かなた》へ遠のこうとも、決して忘《わす》れ去れない自分が、雀の中にはあるのだ。 「前の俺があってこそ……———。�片方だけ�ではなく、その�両方�……」  雀は、もう一度深く頷《うなず》いた。  雪消《ゆきげ》は、そんな雀を黙《だま》って見ていた。 「ところで雪消さん。次の芝居《しばい》の脚本《きゃくほん》は、もう上がっているのかイ?」 「春|公演《こうえん》の分かェ? うん。あまりわっしの書いたものばかり続くのもどうかと思ってな。たまに、昔からあるものを再演《さいえん》することにしてるのサ。それにちょイと手を加えてな、蘭秋《らんしゅう》や藤十郎《とうじゅうろう》向きに直すのヨ」 「へぇ〜」 「これだと、皆もよく知ってる物語を、新鮮《しんせん》な気持ちで見られるだろう!? 特に、お年寄《としよ》りには喜ばれるのサ」  火鉢《ひばち》の上で鉄瓶《てつびん》はちんちんと鳴り、かさこそと雪消《ゆきげ》が紙をめくるたび、墨《すみ》の香《かお》りが立ち上った。また何事もないおだやかな時間が戻《もど》ってきた、日吉座《ひよしざ》の屋根の下。  雀も雪消も、馬鹿な侍の馬鹿な縁談話《えんだんばなし》は、これで終わったと思っていた。菊五郎《きくごろう》が言った「雪消は結界《けっかい》から出られぬ」という話で、栄之進《えいのしん》は納得《なっとく》したと。  だがこの栄之進、猪《いのしし》のくせに蛇《へび》のように執念深《しゅうねんぶか》い男であった。そのお里の安さは、当の保坂《ほさか》の家の者も掴《つか》みきれていなかった。 [#改ページ] [#挿絵(img/03_146.png)入る]   白鬼《びゃっき》春雷を纏《まと》い花を舞《ま》い散らす  その日。「菊屋《きくや》」で新作の菓子《かし》が出された。桃《もも》色の地を桃の花に見立て、黄色い花粉と白い蝶《ちょう》を添《そ》え、金箔《きんぱく》を散らした可愛《かわい》らしく華《はな》やかな練《ね》り切《き》りだった。 「お〜、可愛い、これ!」 「中は桃|餡《あん》でござんすよ」 「これ、三つくンな」 「まいどありがとうござんす」  雀《すずめ》は、仕事帰りに「菊屋」の新作菓子を持ち、雪消《ゆきげ》に会いに行った。貸《か》してもらっていた草紙を返すためだった。さすが作家だけあって、雪消のもとにはたくさんの草紙があった。雀は、それを端《はし》から順に貸してもらっていた。 「こんちは〜」  いつものように日吉座《ひよしざ》の楽屋口をくぐる。 「オヤ、雀さん。いらっしゃイ」  藤十郎《とうじゅうろう》が、脚本《きゃくほん》を片手《かたて》に立っていた。 「芝居《しばい》の稽古《けいこ》かイ、藤十郎さん?」 「俺《おれ》ァ、ウロウロ歩きながらでなきゃ、台詞《せりふ》を覚えられねぇンで」 「アハハ。そうなんだ」  雀から見ても端正《たんせい》で上品な美形の藤十郎だが、それを鼻にかけぬ気さくな人柄《ひとがら》。小娘《こむすめ》よりも、中年増《ちゅうどしま》や粋筋《いきすじ》の女に人気がある。もちろん、旦那衆《だんなしゅう》にもよくモテる。芝居が掛《か》かっている間もそうでない時も、楽屋口にはお使いだのお誘《さそ》いだのが引きも切らない。 「縁日《えんにち》だけでも、中野《なかの》、堀《ほり》の内《うち》、深川《ふかがわ》で見かけたって聞いたぜ、藤十郎さん。いつも女連れでヨ。イヤイヤ、お忙《いそが》しいこって」  雀《すずめ》はニヤニヤ笑って言った。藤十郎《とうじゅうろう》は苦笑いした。 「どうしても断《ことわ》れないお馴染《なじ》みさんがいてねぇ。縁日《えんにち》でお買い物にお付き合いサ。まぁそのたンびに、アレやコレや買ってくれるのはありがたいンだけど!? その日はご馳走三昧《ちそうざんまい》だしネ」 「ヒヒヒ。あやかりてぇ」 「雀さんこそ、しばらく顔を見せなかったじゃないか。忙しかったのかイ?」 「うん。墨田《すみだ》七福神参りと采女《うねめ》ヶ|原《はら》の凧《たこ》合戦に行ってきたんだ。凧合戦の最中に見物人|同士《どうし》が喧嘩《けんか》を始めてさあ。大騒《おおさわ》ぎだったゼ。面白《おもしろ》い記事にはなったけど」 「アア、たまにはそういうものも見てみたいもンだ。俺《おれ》が行くとこといやぁ、縁日か茶屋だもの……オット、こんな贅沢《ぜいたく》を言っちゃあ、雪消《ゆきげ》サンに叱《しか》られる」  藤十郎は肩《かた》をすくめた。 「さ、上がらっし」 「ありがとヨ」  とんとんとんと、雀は階段《かいだん》を軽やかに上ってゆく。 「雪消さん、入るぜ?」  戸口を開くと、座敷牢《ざしきろう》の格子《こうし》の向こうに、夕まぐれの甍《いらか》の波が見えた。雪消は窓枠《まどわく》に腰《こし》を下ろして、格子の間から黄昏《たそがれ》る大江戸《おおえど》を眺《なが》めていた。 「寒くないかい、雪消さん?」 「夕暮《ゆうぐ》れは大好きサ。冬は冬の、夏は夏の夕暮れ……。コウ、赤や金の光が踊《おど》るのも綺麗《きれい》だし、景色《けしき》が紫《むらさき》に染《そ》まってゆく様もイイ。それから入れ替《か》わりに、あちこちでフワリフワリと明かりが灯《とも》り始め、最後は真っ暗になった海のような町に、漁火《いさりび》のように光が煌《きらめ》くのヨ。ほっこりするねぇ」 「菊屋《きくや》の新作お菓子《かし》を持ってきたゼ」 「新作とな!?」  雪消は振《ふ》り向き、つぶらな黒い瞳《ひとみ》をクリクリッとさせた。それを見て、雀は笑った。 「ハハハ……は!?」  雀《すずめ》の目が、大きく見開かれた。 「?」  雪消《ゆきげ》は再《ふたた》び振《ふ》り向いた。  窓の格子《こうし》の向こうに、夕闇《ゆうやみ》にまぎれるように、真っ黒い人影《ひとかげ》が立っていた。 「誰《だれ》だ!」  黒い影の中に、金色の目が開いた。 「保坂栄之進《ほさかえいのしん》様の命により、お迎《むか》えに上がりました。雪消様」  しわがれたような、奇妙《きみょう》な声だった。 「栄之進……。おまィ、栄之進の影者《かげもの》かェ」 「あ、あの野郎《やろう》! まだ諦《あきら》めてなかったのか!!」  雀は、牢《ろう》に取り付いて叫《さけ》んだ。雪消は、雀を制《せい》して言った。 「おぬしの主《あるじ》は聞きが遅《おそ》いのかェ? わっしはこの結界《けっかい》を出られぬと、菊五郎《きくごろう》から言われたはず」 「栄之進様は雪消様のため、離《はな》れに結界の間をお作りになられました。どうぞ、ご安心していらせられますよう」 「わざわざ結界の間を作った!?」  雀も雪消も呆《あき》れ返った。 「なんとのウ。そこまでするかェ」 「雪消さん! こいつぁ、栄之進のただの意地《いじ》だぜ! 菊五郎さんにああ言われて、黙《だま》って引き下がるのがくやしいからに違《ちげ》ぇねえ!」  そう叫ぶ雀を、雪消は再《ふたた》び制した。 「このままお帰り、守役《もりやく》よ。主から叱《しか》られるかも知れんが、わっしはこの結界から出ることが出来ん[#「出ることが出来ん」に傍点]のサ。いくらおまィが腕《うで》のたつ影者《かげもの》だとしても、この結界の外ではわっしに適《かな》わんぞ。わっしは、おまィを引き裂《さ》いてしまうヨ?」 「ご心配には及《およ》ばず」  影者《かげもの》は静かにそう言うと、何か札のようなものを出した。それを見て、雪消《ゆきげ》はハッとした。 「それは、おっ父《と》さんが持っているものだ!」 「御意《ぎょい》。雪消様ご自身を封《ふう》じる札でございます。これにて、保坂《ほさか》の封印《ふういん》の間まで来ていただきます」 「おっ父さんから盗《ぬす》んだな!」  それを見ていた雀《すずめ》も、事態《じたい》を把握《はあく》した。そんな雀の様子を、影者が察した。  ユラリと、影者の右|腕《うで》が動いた。  それを、雪消は見逃さなかった。 「待て!!」  雀の前に、雪消は両手を広げて立ちふさがった。  カッ!! と、影者から伸《の》びた黒い爪《つめ》が、牢《ろう》の格子《こうし》に刺《さ》さった。それは、紙一重で雪消の肩《かた》をかすめて避《さ》け、それゆえに、雀の額《ひたい》に刺さらずにすんだのだった。 「……っ!」  雀は、ゾッとした。雪消がかばわなければ、雀は額を貫《つらぬ》かれていた。 「この子に手を出したら承知《しょうち》せんぞ、守役《もりやく》よ。この子に限《かぎ》らず、わっしの身内すべてに手を出すこと、許《ゆる》さん! 結界《けっかい》の中といえど、わっしは自分の喉《のど》を掻《か》き切《き》るぐらいはできるのだぞ!? 主《あるじ》にわっしの骸《むくろ》を差し出したいのか」  影者《かげもの》は跪《ひざまず》いて言った。 「……承知」 「雪消さん!」  影者によって窓《まど》の格子《こうし》が断《た》ち切られる様子が、雀にはひどくゆっくりとして見えた。  雀の方を振《ふ》り向いた雪消は、なんとも言いがたい表情《ひょうじょう》をしていた。悲しいような、睨《にら》むような。  バン! と、雪消の額に封印《ふういん》の札が貼《は》られた。雪消はそのまま、影者の腕《うで》の中へ倒《たお》れ込《こ》んだ。 「雪消《ゆきげ》さん!!」  牢《ろう》の格子《こうし》に取りすがって叫《さけ》ぶ雀《すずめ》の足元に、影者《かげもの》は小さな粒《つぶ》を投げつけた。ボンッ! と、煙《けむり》が上がる。 「ぶわあっ!!」  雀は床《ゆか》へ倒れた。それを見てから、影者は雪消を抱《だ》いて夕闇《ゆうやみ》の中へ飛び去った。  煙の立ち込める部屋の中。雀は座布団《ざぶとん》の上に倒れた体勢《たいせい》のまま、ずりずりと這《は》って部屋《へや》の戸口まで行き、戸を開けた。顔を座布団に押《お》し付けたまま起き上がり、外へ出て戸を閉《し》める。 「ぶはっ!」  やっと座布団から顔を剥《は》がして、雀は息をついた。 「ヘッ、なめんなよ! 自慢《じまん》じゃねぇが、こちとらこういう場数は、あっちで嫌《いや》っていうほど踏《ふ》んでンだイ!」  雀は、階段《かいだん》を飛ぶように駆《か》け下りた。 「大変だ、大変だあ!! 菊五郎《きくごろう》さあ———ん!!」 「どうしなすったぃ、雀さん!?」  日吉座《ひよしざ》の面々が、驚《おどろ》いてあちこちから顔を出した。 「雪消さんが攫《さら》われた!! 保坂《ほさか》の屋敷《やしき》へ連れてかれちまったよ!!」  雀は菊五郎にすがった。 「そ、そんなことできるわけが……」 「栄之進《えいのしん》の影者《かげもの》が、菊五郎さんから御札《おふだ》を盗《ぬす》んだんだ! それで雪消さんを封印《ふういん》して連れていっちまった!」  菊五郎は、真《ま》っ青《さお》になって引き出しを探《さぐ》った。 「ない……!!」  蘭秋《らんしゅう》も藤十郎《とうじゅうろう》も青ざめた。 「そんな……。このことを知っているのは……」 「影者は、そういうことを調べるプロだろ。雪消さんはそもそも結界《けっかい》から出られないって菊五郎《きくごろう》さんに言われて、栄之進《えいのしん》はあの時から、何か雪消《ゆきげ》さんを結界《けっかい》から出す方法がないかって、影者に探らせてたんだよ!」  菊五郎は、ヨロヨロと立ち上がった。 「いかん。保坂《ほさか》の家で雪消の封印《ふういん》が解《と》けたら、エライことになる!」 「栄之進は、雪消さんのために、離《はな》れに�封印の間�を作ったって、影者が言ってた。そこに閉《と》じ込《こ》めるつもりだよ!」  そういう雀《すずめ》の肩《かた》を抱《だ》いて、菊五郎は首を振《ふ》った。 「その封印の間がどれほどのものか知りやせんが、雪消は、あの結界でねぇとダメなんでござんすよ。あれは雪消のためだけに、特別に作られたもの。あれには、雪消の母親の血が使われているんでござんす!」  事態《じたい》は、深刻《しんこく》だった。 「封印の師匠《ししょう》に知らせなけりゃ……!」  菊五郎はバタバタと走って行った。雀が叫《さけ》んだ。 「誰《だれ》か、大首《おおくび》のかわら版《ばん》屋かうさ屋へ行って、桜丸《さくらまる》か鬼火《おにび》の旦那《だんな》を探《さが》してくれ! このことを知らせてくんな!」 「オイラに任《まか》せな!!」  化け狐《ぎつね》が、ダッと飛び出して行った。 「俺《おれ》は、保坂《ほさか》の屋敷《やしき》へ行ってくる!」 「雀サン!」 「中へ入れやしねぇぜ!?」  心配する蘭秋《らんしゅう》と藤十郎《とうじゅうろう》に、雀は笑って言った。 「なァに。入るサ!」  保坂家の敷地《しきち》の端《はし》に、栄之進は特別に庵《いおり》を建てさせていた。  家の者たちは、またいつもの下らぬ道楽だろうと思っていたが、栄之進は密《ひそ》かに封印師《ふういんし》を呼《よ》び、庵《いおり》そのものをスッポリと結界《けっかい》で閉《と》じた。 「鬼族《おにぞく》の小娘《こむすめ》から力を奪《うば》う程度《ていど》の結界でよい」という栄之進《えいのしん》に、封印師《ふういんし》は、天井《てんじょう》から壁《かべ》から柱から障子《しょうじ》、襖《ふすま》、そして畳《たたみ》の下の床板《ゆかいた》にいたるまで一面に書き込《こ》まれた呪文《じゅもん》を見せ、 「これにて、たいがいの魔《ま》は封《ふう》じられます」 と、太鼓判《たいこばん》を押《お》した。栄之進は満足した。  今、その封印の呪文の中に、雪消《ゆきげ》が寝《ね》かされている。栄之進は、雪消の額《ひたい》に貼《は》られている呪札《じゅふだ》を引き剥《は》がすと、雪消の顔をまじまじと見ながら得意満面に言った。 「どうだ、菊五郎《きくごろう》めが。この儂《わし》をコケにしおって。鬼娘《おにむすめ》を奪ってやったぞ、ヒヒヒ。今ごろ慌《あわ》てふためいておるであろう。だがもう遅《おそ》いわ。これで鬼娘は、儂のものよ。アア、いい気味だ」  栄之進は、雪消の着物に手をかけた。 「さぁて。とりあえず味見をしてみるかの」  その時、部屋《へや》の隅《すみ》の陰《かげ》の中から声がした。 「お待ちを。若《わか》」  栄之進は、ギッと目を剥《む》いた。 「殿《との》と言え!! 儂はもう、事実上|保坂《ほさか》の主《あるじ》ぞ! 兄上|亡《な》き後、床《とこ》から起き上がれぬあの穀潰《ごくつぶ》しに、保坂の家を任《まか》せられるはずがなかろう!」 「お言葉、お慎《つつし》みを。栄之進様」 「役者の子がなんだと言うのだ! 今の儂には、身分より力がいるのだ! 鬼娘の力と、保坂の名を継《つ》いだ儂の子なら、もっと上の身分へ儂を引き上げてくれよう。そうすれば、今まで儂をバカにしていた者どもを見返すことができる! 純血《じゅんけつ》の白鬼《しろおに》の子というだけで、飛びついてくる家はきっと多いぞ! わははは」  そう言って雪消《ゆきげ》の着物を解《と》こうとしている栄之進に、影者《かげもの》が言った。 「雪消様の面差《おもざ》しが、先ほどと違《ちが》って見えます」 「何? そうか?」  栄之進は、雪消の顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。 「思っていたより小娘ではないな」  その栄之進《えいのしん》の目の前で、雪消《ゆきげ》がぽかりと目を見開いた。  真っ黒な、闇《やみ》のような目。 「ハッ……!」  保坂《ほさか》の出来損《できそこ》ない、はみ出し者よと悪評《あくひょう》高くとも、そこは腐《くさ》っても古《いにしえ》の血を引く上級|武士《ぶし》。殺気に身体《からだ》が反応《はんのう》し、栄之進は飛び退《すさ》った。そこへさらに影者《かげもの》が覆《おお》いかぶさり、身を伏《ふ》せさせる。 「若!!」  ズバア———ン!! 耳をつんざく大音響《だいおんきょう》と振動《しんどう》が、あたりを揺《ゆ》さぶった。 「な……、なんだ?」  バラバラッと、木屑《きくず》と土くれが栄之進の身体に当たった。  目を開けると、当たりは暗かった。 「な? な、な……なんとしたことかっ!!」  暗いはずだ。そこには外の景色《けしき》が広がっていた。 「壁《かべ》が……!!」  栄之進は絶句《ぜっく》した。  倒《たお》れた自分たちの頭ひとつ上からの壁が、屋根とともにスッパリと無くなっていた。そこにはもはや、床《ゆか》しかなかった。壁は四方に倒れ、粉々に砕《くだ》け散り、屋根は吹《ふ》っ飛んで、半分に折れひしゃげていた。 「お……お……、おま……」  夜の闇《やみ》の中に、すっくと立つ雪消の身体から、青白い炎《ほのお》が立っていた。  そのつぶらだった瞳《ひとみ》は切れ上がり、あどけなかった面差《おもざ》しは、成熟《せいじゅく》した女の顔をしていた。そして、額《ひたい》からは二本の真っ白い角が生えていた。 「結界《けっかい》が効《き》かなかった……!」  影者が呻《うめ》いた。 「ふぅううぅ……」  雪消《ゆきげ》は、青い吐息《といき》を吐いた。雪消が身じろぐと、青白い炎が陽炎《かげろう》のようにゆらめき、その青さを映《うつ》して、雪消の白い肌《はだ》が、白い髪《かみ》が、夜の海をたゆたうようだった。 「美しい……!」  栄之進《えいのしん》が思わず呟《つぶや》いた。  保坂《ほさか》家の庭は、紅梅《こうばい》が満開だった。闇の中に立つ雪消の背後《はいご》に、雪消の放つ青白い光に照らされて、満開の梅の花が幻想的《げんそうてき》に浮《う》かび上がる。 「動いてはなりません、栄之進様」  影者《かげもの》は、栄之進の身体《からだ》を抑《おさ》えていた。  雪消は、ゆらりゆらりと辺りを見ていた。  そこへ、物音を聞きつけた屋敷《やしき》の警備《けいび》の家臣たちが駆《か》けつけてきた。 「何事?」 「何事!」  家臣たちは、庵《いおり》の有様と雪消を見て仰天《ぎょうてん》した。 「おのれ、曲者《くせもの》!」  刀を抜《ぬ》き、呪札《じゅふだ》を構《かま》えた家臣たちが、雪消を取り囲んだ。  雪消はその者たちを眺《なが》めてから、冷ややかに言った。 「…………薙《な》ぎ払《はら》うぞ」 「先に封《ふう》じよ!」  呪札を持った家臣たちが、封印の陣形《じんけい》を取り始めた。 「御《お》手出しなりませぬ!!」 と、影者が叫《さけ》んだが、遅《おそ》かった。  雪消の白く長い髪《かみ》が、ぶわっと風に巻《ま》き上げられたようになびいた。  次の瞬間《しゅんかん》、赤い霧《きり》に包《つつ》まれて、家臣たちがバタバタと倒《たお》れた。 「うおぉっ!?」  栄之進は飛び上がった。家臣たちは全員、胴《どう》を断《た》ち割《わ》られていた。赤い霧は血飛沫《ちしぶき》だったのだ。  栄之進《えいのしん》の方を振《ふ》り向いた雪消《ゆきげ》は、笑っていた。 「御免《ごめん》!!」  影者《かげもの》がそう叫《さけ》んだ瞬間《しゅんかん》、雪消は栄之進の目の前に来ていた。 「……っ!!」  栄之進は、声も出なかった。  雪消を止めたのは、栄之進の刀を構え、その切っ先を雪消の喉元《のどもと》に突《つ》きつけた影者だった。影者がそうしなければ、雪消は栄之進を、その長い青い爪《つめ》で引き裂《さ》いていただろうと、栄之進にはわかった。とたんに、ガタガタと震《ふる》えがきた。 「魔剣《まけん》か……」  自分に突きつけられた刀身を見て、雪消は言った。 「さすが古き血の家よ。良いものがある。だが……持ち主がコレでは、宝《たから》の持ち腐《ぐさ》れというものだな」  雪消は、栄之進を見て冷たく笑った。 「おまィも悲しき身の上よのウ、守役《もりやく》よ。こんな愚《おろ》か者《もの》のために死ぬのかェ」  影者は、刀を構《かま》えたまま黙《だま》っていた。その身が、ビリビリと緊張《きんちょう》している。栄之進は泣きそうになっていた。 「おまィの愚かな主《あるじ》なぞ、殺す価値《かち》もない。だが、おまィはいいな、守役よ……。おまィの血なら飲んでみたい……。おまィの肉なら、喰《く》ろうてみたいぞ……」  雪消が、うっとりと目を細めた。 「雪消さん!!」  その声に、雪消はゆっくりと振《ふ》り向いた。影者は栄之進をひっつかんで、その場から飛び去った。  梅林の中を、雀《すずめ》が駆《か》けて来た。 「雪消さん! 無事かい!!」 「ああ……」  雪消は、泣きそうな顔で笑った。 「ああ……雀《すずめ》……!」 「雪……」  雀は、雪消《ゆきげ》の様子が違《ちが》っていることに気がついた。思わず足が止まる。  雀を見つめる雪消の周りに、わっと風が立った。 「馬鹿《ばか》な子だ……。馬鹿な子だね……」  まるで桜吹雪《さくらふぶき》のように舞《ま》い散る紅梅《こうばい》の花びらの中、雪消をとりまく青い炎《ほのお》が、放電のように四方にほとばしる。  雀は、その様に痺《しび》れたように見|惚《ほ》れた。怖毛《おぞけ》が立つような美しさだった。 「ああ……ぞっとするはずだ……」 と、雀は思った。  雪消が、一瞬《いっしゅん》の間に自分に突《つ》き進んでくるのが、またもひどくゆっくりとして見えたからだ。  殺されるのだと、わかった。 「殺される……」  それ以外は、なんの思いも浮《う》かんでこなかった。  ドンッ———!!  雀の身体《からだ》を揺《ゆ》らしたその衝撃《しょうげき》は、自分が死んだ衝撃だと雀は思った。  しかし、雪消の右手が貫《つらぬ》いたのは、二人《ふたり》の間に間一髪滑《かんいっぱつすべ》りこんできた、鬼火《おにび》の旦那《だんな》の身体だった。 「ハッ!!」  雀も雪消も驚《おどろ》いた。 「……んんっ!」  雪消の五本の爪《つめ》がすべて旦那の左|肩《かた》を貫通《かんつう》し、着物を破《やぶ》って背中《せなか》に突き出ていた。そこから吹《ふ》き出た血が、旦那の着物と、後ろに立つ雀の着物をみるみる真《ま》っ赤《か》に染《そ》めてゆく。旦那《だんな》はそのまま、雪消《ゆきげ》の右|腕《うで》を押《お》さえ込《こ》み、動きを止めた。 「おまィが……鬼火《おにび》か……」  雪消は、薄《う》っすらと笑った。 「以後ごべっこんのほど……よろしく頼《たの》まぁ」  旦那はそう言うと、血みどろの右手で、雪消の額《ひたい》に封印《ふういん》の呪文字《じゅもじ》を描《か》いた。 「ふふふ」  雪消は笑いながら、ゆっくりと目を閉《と》じた。青い炎《ほのお》が、霧《きり》が晴れるように霧散《むさん》していった。  旦那は雪消の身体を支《ささ》えながら寝《ね》かせ、肩に喰《く》い込んだ雪消の手を抜《ぬ》いた。バタバタと地面に落ちる血が、たちまち血だまりを作る。 「だ……旦那……旦那……」 「大丈夫《だいじょうぶ》だ、雀《すずめ》。もう済《す》んだ」  旦那の着物は、前も後ろも全身血染めだった。旦那の血を浴びた雀は、ガタガタと震《ふる》えた。 「だ、旦那……!」  震《ふる》える雀を、旦那は右手で抱いた。 「大丈夫だ。何も心配《しんぺえ》いらねぇよ」  血の臭《にお》いが雀の鼻をついた。旦那の身体《からだ》を抱きしめると、着物から血がしみてくるのがわかった。それがとてつもなく恐《おそ》ろしく感じて、雀は泣けてきた。  松明《たいまつ》を持った黒い影《かげ》が三つ現《あらわ》れた。  その背後《はいご》の暗がりに立つ人影。 「栄之進《えいのしん》様はご無事か?」 と、人影が言った。 「ご無事でございます」  少し離《はな》れた場所から返答があった。 「ご家老《かろう》」  鬼火《おにび》の旦那《だんな》が、松明《たいまつ》の向こうへ声をかけた。 「梅の花を散らせて申し訳《わけ》なかった。せっかく見ごろだったのにねェ」  人影はしばらく黙《だま》っていたが、やがて静かに、 「……良い」 と、言った。 「鬼火の旦那!」  ふわりと、桜丸《さくらまる》が空から降《お》りてきた。 「桜丸、雪消《ゆきげ》を頼《たの》むぜ。デコの封印《ふういん》を消さねぇよう気をつけて、とりあえず日吉座《ひよしざ》へ帰してやンな。お前《め》ぇ、付いててやってくれるかィ?」 「承知《しょうち》」 「結界《けっかい》のことはまた後でと、菊五郎《きくごろう》に言っといてくれ。俺《おれ》ァ、着替《きが》えてくらぁ。雀《すずめ》、桜丸と行きな」  雀は旦那にしがみついたまま、無言で頭を振《ふ》った。 「大丈夫《だいじょうぶ》だからヨ。みんなは、お前《め》ぇのことも心配してる」  それでも、雀は頭を振《ふ》るばかりだった。 「しょうがねぇの」  旦那は小さくため息をついた。桜丸がくすりと笑う。 「そイじゃ、先に行くぜ」  桜丸は雪消を抱《だ》いて、夜の空へ飛び上がった。  旦那は、松明の向こうの人影《ひとかげ》に会釈《えしゃく》した。 「俺《おれ》らもこれで失礼しやす。後はよろしく頼《たの》みますゼ」 「……」  無言が、承知《しょうち》の意味であった。 「さてと」  旦那は、雀に支《ささ》えられるようにして塀《へい》のところまで歩いて行った。歩を進めるごとに、ぱたぱたと血がしたたった。  塀《へい》まで来ると、旦那《だんな》は白壁に血で、人の大きさほどの四角形を描《か》いた。それを押《お》すと、そこが戸のようにぱかりと開いた。 「ハッ!」  驚《おどろ》く雀《すずめ》を連れて旦那が塀をくぐると、そこは見|慣《な》れた廊下《ろうか》だった。 「神田《かんだ》……神田の旦那の庵《いおり》だ!」  雀が振り向くと、そこには壁があるばかりだった。  襖《ふすま》が開き、お多福《たふく》の面をかぶった者が出てきた。 「あ」  まだ雀が鬼火《おにび》の旦那の「天空の庵」にいた頃《ころ》、美味《うま》い飯を作ってくれたお多福の面の者。旦那は、少し倒《たお》れこむようにお多福の面の者に身体《からだ》を預《あず》けた。 「雀、庭の井戸《いど》で身体を洗《あら》ってきな。血をちゃんと洗い流して、着物は替《か》えを用意してるから、今着てるのは捨《す》てるんだ」  そう言う間にも、旦那の足元に血だまりができてゆく。雀は、また泣けてきた。 「早く行きな」 「ハ、ハイッ!」  雀は、涙《なみだ》をぬぐいながら庭へ走った。  井戸《いど》の傍《かたわら》には、ひょっとこの面をかぶった者がいて、雀の水浴びを手伝ってくれた。  頭から浴びせられる水の冷たさにも震《ふる》えた雀だが、足元を流れてゆく水が真《ま》っ赤《か》に染《そ》まっているのには、さらに震え上がった。雀の身体《からだ》を血みどろにするほど大量の血が、旦那《だんな》の身体から流れ出てしまったのだ。 「どうしよう……どうしよう……———」  雀の胸《むね》は、不安で張《は》り裂《さ》けそうだった。  新しい着物に着|替《が》えて、雀は大急ぎで庵《いおり》の中へ戻《もど》った。  雀が部屋《へや》へ入ると、お多福の面の者が、旦那の身体に白布《しろぬの》を巻《ま》いているところだった。部屋の中は、濃《こ》い香《こう》の匂《にお》いがたちこめていた。旦那の出血はもう止まっているようだったが、腰《こし》まで脱《ぬ》いだ着物もその足元も、山積みの白布も桶《おけ》の水も血まみれだった。  雀《すずめ》に背《せ》を向けて、旦那《だんな》は跪《ひざまず》いていた。少し俯《うつむ》き加減《かげん》な様子が、痛《いた》みに耐《た》えているように、雀には見えた。時折、「ふっ」と、息を吐《は》く音が聞こえた。 「……」  雀は言葉もなく、戸口に立ち尽《つ》くすばかりだった。  お多福《たふく》の面の者は黙々《もくもく》と、旦那の身体から血を拭《ぬぐ》い、着替えさせ、汚《よご》れたものを片付《かたづ》け、部屋を出て行った。 「アア、やれやれ」  立ち上がり振《ふ》り向いた旦那は、いつもと変わりない様子だった。ただ、左手を懐手《ふところで》にしていた。 「さて。日吉座《ひよしざ》へ行くか」 「えっ??」  雀は飛び上がるほど驚《おどろ》いた。 「何言って……ね、寝《ね》てなくて……休んでなきゃ」  そう言いながら、雀はガチガチと震《ふる》えた。立っていられないほど、骨《ほね》から震えた。 「雀」  旦那は、右手で雀を胸《むね》へ抱《だ》き込んだ。 「心配《しんぺえ》いらねぇ。俺《おれ》ァ、大丈夫《だいじょうぶ》だ。死にゃしねぇヨ」 「だっ、だって、だって、あ、あんなに、ち、ち、血がっ……」 「確《たし》かにちィとふらふらするが、こンくれぇの傷《きず》じゃあ死なねぇって」 「何が、こンくれぇの傷だよ! 死にそうな大|怪我《けが》じゃねぇか!」  旦那の胸に顔をうずめたまま、雀は叫《さけ》んだ。 「嘘《うさ》ぁねぇ。俺にとっちゃぁ、こンくれぇの傷なんだヨ。……サァサァ、泣くなよ。着|替《が》えたばかりだってぇのに、着物に鼻水がつかぁ。ホレサ、雪消《ゆきげ》のとこへ行ってやらにゃあならねぇだろう!?」 「休んでくれよ! ちゃんと! おとなしく……!」  旦那は、嫌々《いやいや》と頭を振る雀の背中《せなか》をぽんぽんと叩《たた》いた。 「雪消《ゆきげ》のことがすんだら、言われなくても休むサ」 と、旦那《だんな》は言ったが、雀《すずめ》は旦那の胸《むね》にすがったまま、とうとう大声で泣き出してしまった。  ひょっとこの面の者が引く力車が、日吉座《ひよしざ》の楽屋口に着いた。 「座長! 鬼火《おにび》の旦那がご到着《とうちゃく》で!」  そう聞くが早いか、菊五郎《きくごろう》は廊下《ろうか》の奥《おく》からすっ飛んで来た。 「鬼火の旦那!」  菊五郎は、あがり口に立った旦那の足元にひれ伏《ふ》した。 「このたびは雪消が! まことに……まことにご迷惑《めいわく》をおかけし、この菊五郎、お詫《わ》びのしようもござんせん!」  旦那は、右手をひらひらさせた。 「雪消のせいじゃねぇだろう。話は後後。封印師《ふういんし》は来てるかェ?」  旦那は菊五郎に案内され、座敷牢《ざしきろう》の間《ま》へ上がった。  雪消は、牢内《ろうない》に寝《ね》かされていた。血みどろだった着物は替《か》えられ、封印《ふういん》文字の描《か》かれた額《ひたい》に、もう角はなかった。破《やぶ》られた窓《まど》の格子《こうし》は、すでに修理《しゅうり》されていた。  雪消の傍《かたわ》らには、桜丸《さくらまる》と封印師《ふういんし》がいた。 「お、旦那。大丈夫かイ? 遅《おせ》ぇから心配したゼ」 「ナニサ。出ようとしたら、こいつに行くなとわぁわぁ泣かれてな。なだめるのに一苦労ヨ」  旦那は、傍《そば》にくっ付いて離《はな》れようとしない雀《すずめ》を指差した。雀は、泣きはらした顔をプゥとふくらませた。桜丸は、ぷっと笑った。 「お初にお目通りいたします。弦律《げんりつ》と申します」  封印師が頭を下げた。旦那は、封印師に話した。 「この結界《けっかい》は、雪消の母親の血を使って作ったと聞いたが、雪消を俺《おれ》の血で封印しちまったもンでな。この結界も、俺の血で封印し直してもらいてぇンだ」 「それはできますが……」 「ああ、俺《おれ》の血ならたっぷりあるからヨ」  そう言って、旦那《だんな》は懐《ふところ》から血のつまった硝子瓶《ガラスびん》を出した。 「わぁっ!!」  それを見て、雀《すずめ》は飛び上がったかと思うと、そのままバッタリ倒《たお》れてしまった。 「雀!?」  旦那は、ため息をついた。 「泣いたりわめいたり目ぇ回したり……。世話世話《せわぜわ》しぃのウ」 「あンたの血を頭から浴びりゃあ、目だって回すゼ」  桜丸《さくらまる》は、雀に同情した。  皆《みな》が集まった階下の部屋に、鬼火《おにび》の旦那と、雀を抱《だ》いた桜丸が下りてきた。 「鬼火の」 「百雷《ひゃくらい》。来てたのかェ」 「太夫《たゆう》が報《しら》せに来てな。お前《め》ぇ、大丈夫《だいじょうぶ》か?」 「なんとかな」 「雀はどうしたんだい?」  ポーが心配そうに寄《よ》ってきた。 「こっちも貧血《ひんけつ》だ」  雀は、座布団《ざぶとん》を枕《まくら》に部屋《へや》の隅《すみ》に寝《ね》かされた。  旦那は、神妙《しんみょう》に並《なら》んだ日吉座《ひよしざ》の面々に言った。 「今、封印師《ふういんし》が結界《けっかい》を張《は》り直してる。雪消《ゆきげ》のデコの封印を消しゃあ、何もかも元通りだ。保坂《ほさか》家も何も言って来るまいよ。安心していい、菊五郎《きくごろう》」  菊五郎は、深々と頭を下げた。 「何とお礼を申し上げていいか……」  蘭秋《らんしゅう》たちも一斉《いっせい》に頭を下げた。 「雪消《ゆきげ》サンを救って下すって、ほンにありがとうござんす」 「日吉座《ひよしざ》一同の恩人《おんじん》ですェ」 「保坂《ほさか》は本当に大丈夫か?」 「家来を何人か殺《や》っちまったが、栄之進《えいのしん》は無事だった。保坂とすりゃあ、それでシャンシャンよ。向こうサンも、栄之進が大すかまたをやらかしたってこたぁ、わかってるからな」 「古《いにしえ》の名家も、アハハの三太郎|一人《ひとり》で上がったり大明神だの」  百雷《ひゃくらい》は気の毒そうに言った。 [#改ページ] [#挿絵(img/03_181.png)入る]   まだ浅き春かな  雀《すずめ》が目を覚ますと、そこは神田《かんだ》の庵《いおり》だった。 「ハッ!」  がばりと起き上がる。外は、すっかり明るかった。 「オ、起きたかェ」  桜丸《さくらまる》が炬燵《こたつ》で丸くなっていた。 「桜丸! エ……ト」  桜丸は唇《くちびる》に指を当てた。 「旦那《だんな》は隣《となり》だ」 「……」  雀《すずめ》は、襖《ふすま》をそっと開けた。枕元《まくらもと》に立てかけられた屏風《びょうぶ》で顔は見えないが、灰吹《はいぶ》きの傍《そば》に黒|眼鏡《めがね》が置かれ、衣桁《いこう》には鬼火柄《おにびがら》の着物が掛《か》けられていた。 「大丈夫《だいじょうぶ》だヨ」  旦那を見つめたまま動かない雀に、囁《ささや》くように桜丸《さくらまる》は言った。 「ものすごい血で……」 「うん」 「雪消《ゆきげ》さんの爪が……旦那の肩《かた》から生えたみたいにサ……」 「うん」 「怖《こわ》かった……。旦那が死んだらどうしようって……」 「旦那が死ぬわけねぇヨ」 「でも! 死んだらどうしようって!!」  雀は初めて、失うことの恐《おそ》ろしさを知った。ただ叫《さけ》んで、泣くしかない無力な自分を知った。 「誰《だれ》か見分けがつかねぇくらいボコボコにされた奴《やつ》とか、あたり一面血だらけとか、死体だって見たことがある。そんなの平気だと思ってた。けど……、だらだら血を流してても、普通《ふつう》にしゃべって動いてる旦那《だんな》の顔色が、やっぱりだんだん青ざめてきて……。それが本当に怖《こわ》かったんだ。なんか……自分の手の中の砂《すな》が、どんどん落ちていくみたいな気持ちになってサ……」  桜丸は、雀の頭をポンと叩《たた》いた。 「旦那だって、あれだけ血を失なやぁ、顔色も悪くなるサ。そこらの小物がつけた傷《きず》なら、つけた端《はし》から治しちまうが、さすが純血《じゅんけつ》の白鬼《しろおに》の攻撃《こうげき》じゃあ、そうもいかなかったようだしな。だが、傷つくってなぁ、大事《でえじ》なことだゼ、雀?」 「……」 「痛《いた》みも苦しみも感じねぇんじゃあ、生きてる甲斐《かい》がねぇやナ」 「……」  雀《すずめ》は、小さく頷《うなず》いた。 「なんにしろ、旦那《だんな》が死ぬなんてこたねぇよ。少なくとも、お前《め》ぇが生きてるうちはなぁ」  そう言って笑った桜丸《さくらまる》だが、昨夜|日吉座《ひよしざ》から庵《いおり》へ帰ってきた際《さい》、旦那は力車の中から立ち上がれず、百雷《ひゃくらい》が抱《かか》えて部屋《へや》まで行ったことは、雀には内緒《ないしょ》にしておこうと思った。その旦那も、今朝《けさ》はようよう元気になっていた。 「朝飯はがつがつ喰《く》ってたぜ?」 「ホントに?」 「嘘《うさ》ァねぇ。全部|収《おさ》まるとこに収まったンだよ。雪消《ゆきげ》のことも、保坂《ほさか》のこともな」 「……」 「だからお前ぇも飯を喰いなぁ」 「……ん」  スラリと襖《ふすま》が開いて、お多福《たふく》面の者が膳《ぜん》を運んできた。焼き魚と味噌汁《みそしる》のいい匂《にお》いがした。 「ハハ。あンたの飯を喰《く》うのは久《ひさ》しぶりだな! あの時は、ありがとヨ」 と、雀《すずめ》は嬉《うれ》しそうにお多福面の者に言った。面の向こうの顔が笑っているのを感じた。  三日後。雀は、日吉座《ひよしざ》の楽屋口をくぐった。  座敷牢《ざしきろう》の部屋《へや》は、何事もなかったかのようだった。ただ、張《は》り巡《めぐ》らされた呪札《じゅふだ》が新しくなっていた。 「オオ、雀」  雪消《ゆきげ》も、変わりなくそこに居《い》た。 「また来てくれたのかェ」  柔《やわ》らかい、あどけない顔で雪消《ゆきげ》は微笑《ほほえ》んだ。 「菊屋《きくや》の新作|菓子《がし》持ってきたゼ。こないだは喰《く》いそびれたもンな」 「ヤレ、ありがたい。覚えていてくれたか」  お茶の香《こう》ばしい香《かお》りが漂《ただよ》った。 「鬼火《おにび》の旦那《だんな》はどうだェ?」  雪消が静かに問うた。 「ずいぶん心配したけど……、本人が大丈夫《だいじょうぶ》って言った通り、ホントに大丈夫だった」  横になっていたのは半日で、二日目の夜には、傷《きず》はあらかた消えかかっていた。 「やっぱスゲェわ、旦那って」 「ふふふ」  雪消は雀《すずめ》を微笑ましげに見ていたが、やがて言った。 「また会えて嬉《うれ》しいぞ、雀。もう会えないかと思っていた」 「……」  仔犬《こいぬ》のような雪消の黒い瞳《ひとみ》。白鬼《しろおに》の姿《すがた》が、夢《ゆめ》のようだった。 「怖《こわ》い思いをさせてすまなかった」 「うん……怖かった。けどサ……」  春の嵐《あらし》だった。それはただ、やって来て、去るもの。春雷《しゅんらい》を纏《まと》い、花を舞い散らしてそこにあるもの。一片の慈悲《じひ》も無く、容赦《ようしゃ》も無かった。純粋《じゅんすい》な力があるだけだった。 「雪消さんは……綺麗《きれい》だったよ……。前に言ったよな。春の嵐みたいだって。本当にそんな感じだった」  青い光の中に舞い散る赤い花が、白い姿を艶《あで》やかに飾《かざ》っていた。美しかった。その混《ま》じりけのない完璧《かんぺき》さに、怖毛《おぞけ》が立つほど。  その白鬼が、可愛《かわい》らしい桃《もも》の菓子を頬張《ほおば》っている。まるで童女《どうじょ》のように。保坂《ほさか》の家臣たちを殺したことも、鬼火の旦那を傷《きず》つけたことも、そんなおぞましい本性を持っていることも、さして気にしていない様子で。だが同時に、雪消は、雀を殺そうとした影者《かげもの》から身体《からだ》を張《は》って守ってくれた。  どちらも、同じ雪消《ゆきげ》。  どちらも純粋《じゅんすい》で、ありのままの雪消。生まれたままの姿。  そこに、是非《ぜひ》はない。 (コレが、大江戸《おおえど》……。俺《おれ》が生きてゆく世界だ)  雀《すずめ》は、あらためてそう心に決めた。  雪消の時間は、これからもこの牢《ろう》の中で過《す》ぎてゆく。  ゆっくりと、おだやかに過ぎてゆく。  窓《まど》の格子《こうし》の向こうに、巡《めぐ》る季節を映《うつ》しながら。  鬼火《おにび》の旦那《だんな》の言った通り、その後|保坂《ほさか》家は何も言ってこなかった。犠牲者《ぎせいしゃ》は多かったが、何もなかったことにする方が、保坂家としては得策《とくさく》と踏《ふ》んだのだ。 「あの半可通《はんかつう》、深川《ふかがわ》にもぱったり姿《すがた》を見せなくなったらしいよ?」  ポーが面白《おもしろ》そうに言った。 「あれだけの騒《さわ》ぎを起こしたんだ。さすがに大手を振《ふ》っていられなくなったンだろうサ。保坂の家も、これ以上むく犬のケツに振り回されたかぁねぇだろうしな。キツイやり込《こ》みを入れたんだろうゼ」  桜丸《さくらまる》も、ヒヒヒと笑った。 「うさ屋」で昼飯を喰《く》いながら、雀はポーと桜丸《さくらまる》と話していた。 「とにかく良かったよ〜。保坂《ほさか》の家なら、日吉座《ひよしざ》なんて簡単《かんたん》に潰《つぶ》せるもんなぁ」  雀《すずめ》は、河豚《ふぐ》のアラの酒粕汁《さけかすじる》を美味《うま》そうに飲んだ。 「あ〜、温《あった》まる!」 「オヤ、鬼火《おにび》の旦那《だんな》。いらっしゃい」  うさ屋の声で雀が振り向くと、旦那が暖簾《のれん》をくぐってくるところだった。 「旦那!」 「オゥ、お揃《そろ》いで」  雀たちを見て、旦那は笑った。 「酒と肴《さかな》を頼《たの》まぁ。燗《かん》でな」 「呑《の》み込《こ》み山。お節《せつ》、二階に火ィ入れな」 「アイアーイ」  雀は残りの飯をかっ込むと、ぴょんと飛ぶように旦那の傍《そば》へ行き、二階に上がる旦那に仔犬《こいぬ》のようにまとわりついた。 「旦那、旦那! 今日は河豚《ふぐ》のアラの酒粕汁があンだぜ。すっげぇ美味《うま》かった」 「そうかィ。そィじゃ、後でそいつも貰《もら》おうかの」  二人《ふたり》の様子を見ていた桜丸《さくらまる》は、小さくため息をついた。 「せっかく、雀も木《こ》の芽時《めどき》かと思ったンだがなぁ。元に戻《もど》っちまったか」 「雀のあれは、�生まれ直し�をしているのかも知れないねぇ」  ポーは、笑いながらパイプに火を入れた。 「雀って、ボクたちも、雀自身も意識《いしき》してないけど、けっこう無理をしているようだし。ホントはもっとずっと幼《おさな》いんだろうサ。元の世界で子どもらしくできなかった分ネ」 「ふぅん!? ……で、最も子どもらしくしていられるのが、旦那の傍《そば》ってわけか」 「当然っちゃあ、当然だよネ」 「旦那に甘えてるうちゃあ、春は当分来そうにねぇなぁ」 「雀の春は、まだ遠き彼方《かなた》の薄闇《うすやみ》の中だろうサ。まぁ、いいじゃないか。ゆっくり育てば」  パイプの煙《けむり》がゆらりゆらりと立ち上ってゆく。  お節《せつ》が、盆《ぼん》に酒を乗せて二階へ上がろうとしていた。 「オ。待ちな、お節。そいつぁ、俺《おれ》が持って行くぜ」 と、桜丸《さくらまる》は、お節から盆を受け取って階段《かいだん》を上って行った。お節は肩《かた》をすくめると、うさ屋に言った。 「旦那《だんな》にお銚子《ちょうし》追加〜」  ポーは、ふーっと煙を吐《は》いた。 「君もそうとう旦那に甘えているヨ、桜丸。いろんな意味でネ」 「あ、雪だ……」 「うさ屋」の二階の窓《まど》から、雀《すずめ》は空を見上げた。  はらほろと落ちくる雪は、もう冬の最中の結晶《けっしょう》のようなものでなく、水気を含《ふく》んでぽってりとしたぼたん雪だった。頬《ほほ》に当たると、冷たいと思う間もなく、しどけなく溶《と》けた。 「冬は、もうせかせかと行っちまったなぁ」  桜丸も空を見上げた。 「春が来る……」  雀は、雪|模様《もよい》の大江戸《おおえど》の空の彼方《かなた》に、出番はまだかと待っている春を思った。 「お待ちどう〜。煮《に》やっこと焼《や》き白子《しらこ》の二色だれで〜す」  お節《せつ》が持ってきた肴《さかな》に、雀と桜丸は目をキラキラさせて振《ふ》り向いた。 「煮やっこ!」 「焼き白子! 待ってました!!」 「二人《ふたり》とも! これは、旦那のなンだから!!」  お節の一つ目ににらまれた雀と桜丸を、鬼火《おにび》の旦那は笑って見ていた。  春、まだ浅き大江戸《おおえど》。  名残《なごり》雪は、ゆく冬を惜《お》しむように降《ふ》り続き、大江戸の町に最後の雪化粧《ゆきげしょう》をほどこした。 [#改ページ] 香月日輪(こうづき・ひのわ) 和歌山県に生まれる。「地獄堂霊界通信」シリーズ『ワルガキ、幽霊にびびる!』(ポプラ社)で日本児童文学者協会新人賞を受賞。『妖怪アパートの幽雅な日常㈰』(講談社)は産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞し人気のシリーズとなっている。その他の著作に「エル・シオン」シリーズ(ポプラ社)、「ファンム・アレース」シリーズ(講談社)『下町不思議町物語』(岩崎書店)などがある。怪談本好きの大阪市在住。 [#改ページ] 底本 理論社 単行本  大江戸妖怪かわら版㈫  封印の娘  著 者——香月日輪  2007年9月  第1刷発行  発行者——下向 実  発行所——株式会社 理論社 [#地付き]2008年10月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・河豚|雑炊《ぞうすい》をかっ込《か》む ・三宝《さんぽう》(前巻は三宝《さんぼう》) ・灰吹《はいふ》き ・灰吹《はいぶ》き ・町中がいっそう気忙《きぜわ》しく(文頭に空白なし) ・かくしてすべての憂《うれ》いは去り(文頭に空白なし) 置き換え文字 侠《※》 ※[#「にんべん+夾」、第3水準1-14-26]「にんべん+夾」、第3水準1-14-26 繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94 醤《※》 ※[#「將/酉」、第3水準1-92-89]「將/酉」、第3水準1-92-89 掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71